人間にとって科学とは何か の商品レビュー
冒頭で1999年「世界科学会議」で宣言された「科学と科学的知識の使用」について、以下の主旨が紹介されている。 1知識の進歩のための科学 2平和実現のための科学 3持続的発展のための科学 4社会のための、そして社会の中の科学 本書の後半では、特に4つ目の科学が中心の話題となってい...
冒頭で1999年「世界科学会議」で宣言された「科学と科学的知識の使用」について、以下の主旨が紹介されている。 1知識の進歩のための科学 2平和実現のための科学 3持続的発展のための科学 4社会のための、そして社会の中の科学 本書の後半では、特に4つ目の科学が中心の話題となっている。梅棹・湯川の『人間にとって科学とはなにか』では、1つ目の科学を中心に対する考察といえる。4この二人が対談してから約30年間を経て、これら4つの類型が整理されたことになる。 社会の中の科学を取り巻く課題は、多くそれとても深い。万人のコンセンサスを得ることは極めて難しいと予想される。それでもES細胞、脳死臓器移植問題、生殖医療といった分野の周辺の生命倫理上の課題と向き合わなければならない。わたしたちが。 個人的には、社会と科学の一つの接点として、「市民参加型技術評価」の可能性を注視していきたい。現状の政策等へのパブリックコメントの手法が成熟することを期待している。そのためには、筆者のいう「科学技術リテラシー」を身につけた人材育成が必要で、16年間の学校教育で「教養教育」を実施することが肝要となる。衆禺にならないような科学教育だ。 オマケ 先日見た映画『はやぶさ 遥かなる帰還』を見ても感じたが、日本特有の科学技術の発達のかたちとしては、まず「技術」とそれを支える「工学」が大切にされていたことが特徴とされているそうだ。他の近代国家の理学先行型とはだいぶ趣がことなることがよくわかった。
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博士課程の方に村上先生の本を紹介頂いたが、 非常に勉強になったと感じていますし、他の方にも お勧めしたいです。 村上先生の他の書籍も読んでみたいと思います。
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今現在、「科学者」「科学」の置かれている立場を、もう一度、考えるのに、非常に重要な本。 10年6月刊行。 巷では、寺田寅彦が持ち上げられているようであるが、『沈黙の春』を挙げるまでもなく、科学を告発する者の多くは、れっきとした科学者である。 科学技術に裏付けられた物質文明の享...
今現在、「科学者」「科学」の置かれている立場を、もう一度、考えるのに、非常に重要な本。 10年6月刊行。 巷では、寺田寅彦が持ち上げられているようであるが、『沈黙の春』を挙げるまでもなく、科学を告発する者の多くは、れっきとした科学者である。 科学技術に裏付けられた物質文明の享受は、再考の余地が十分あると僕自身、考えるが、科学を全否定するような輩は、例えどこかの偉い学者先生であっても、全く与しない。 読書案内、参考図書がないのが非常に残念。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
図書館でみつけて、即座に借りました。なにしろ、村上陽一郎さんには、進路に悩んでいた若い頃に「科学者とは何か」でずいぶんと助けていただきましたので。 結論は常識的で、「科学イコール役に立つ、という軸だけで科学を考えるのはやめよう。もっと根源的な意味がある筈だから。そしてみんなで科学リテラシーを身につけよう」というものでした。 この本で感心したのは、第3章「医療における新たな制度」のところです。 村上さんは、医師-患者関係について、「患者」が「医者」と対等になるような関係を理想としているようですが、その論拠が秀逸なのです。 まず、「社会においては文明の進捗具合によって疾病構造が変化する」という考え方を紹介します。 それは、「文明の第一段階」では主たる死因は「消化器系の感染症」、「第二段階」では「呼吸器系感染症」、「第三段階」では「生活習慣病」、そして最終段階で「社会的不適合」になる、というものです。 これは説得力があります。 未開な社会ではコレラとか腸チフスとかで亡くなる人が多くって、少し進むと肺炎とか結核とかになって、さらに進むとメタボ系=動脈硬化系(脳卒中、心筋梗塞)とがんになって、その先にはおそらく「自殺」がくる。 第一、第二段階の「感染症」が主体で会った頃の医療関係は、医療の力が非常に強かったから、関係も医療者側が強かった。しかし、第三段階になってくると、「患者」の力がないと、たとえば糖尿病を落ち着けるのには本人の努力による運動とダイエットが不可欠であるように、病気をコントロールすることができない。 こういう時代では、「患者学」というのも必要だ。 という訳です。 生活習慣病を見る医者と、感染症をみる医者とでは、医者のできることに差があるという着眼点に感心しました。 ただ、村上さんは「がん」も「生活習慣病」と同列に論じようとしていたけど、「がん」はどっちかというと「感染症」に近いんじゃないかな、とは思いました。だから「がん」の治療方法についての自己学習を推奨する考え方については、ちょっと違うと思いました。 あと、最後の方にでてくる「現場荒らし」の科学者(自分に都合の良い研究結果がでるまで「現場」にいて、結果がでたらオサラバしてしまう研究者)の問題提起にもフックしました。研究者を「ビジター型」と「レジデント型」に分けて考えようという向きもあるそうです。 この考え方って、そのまま医者の世界にあてはまりますよね。開業医や、その病院に長く勤める勤務医は「レジデント型」、数年でどんどん移っていく医者たち(研修医や、ローテーションが決まっている大学系の医者とか)が「ビジター型」。 自分が、「レジデント型」から「ビジター型」になってしまうことに関して、屈託があるってこともすごく自覚しました。まあ、どっちがいいということではなくて、それぞれに得意分野を開拓していこうよということになるんだと(アタマでは)思うんだけど、僕の「中の人」は結構頑固で、なかなかその考えを「うん」と言ってくれず苦労しました。 長くなってしまいましたが、結論は、「村上さんは今回も僕を助けてくれた」ということでした。
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・知識の進歩のための科学 ・平和実現のための科学 ・持続的発展のための科学 ・社会のための、そして社会の中の科学 人間の歴史を調べていくと、われわれがだんだん広がっていることは確か。 ユダヤ人自身もかつて、ユダヤ人だけがわれわれで、あとはみんな異邦人だと断じた。それをキリストが...
・知識の進歩のための科学 ・平和実現のための科学 ・持続的発展のための科学 ・社会のための、そして社会の中の科学 人間の歴史を調べていくと、われわれがだんだん広がっていることは確か。 ユダヤ人自身もかつて、ユダヤ人だけがわれわれで、あとはみんな異邦人だと断じた。それをキリストが、よきサマリア人の挿話で、ユダヤ人だぇが神から選ばれた民族だと思っているのは間違いだよ、と説いたわけだ。そして皮肉にもアーリア人たちに、他者扱いされてしまう。 新しい教養教育は現代に即した現実的テーマを、分野横断的に取り扱う必要がある。これからの時代、理系でも法律や倫理の知識は欠かせませんし、同じように文系でも科学や技術の影響を理解し、判断し、意志決定する能力が読み書き能力と同様に大切なものです。
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