逆光の智恵子抄 愛の伝説に封印された発狂の真実 の商品レビュー
(2003.10.21読了)(2003.09.19購入) 副題「愛の伝説に封印された発狂の真実」 長沼智恵子 1886年5月20日 福島県安達郡生まれ 1903年 福島高等女学校卒業 日本女子大学校普通予科入学 1907年 日本女子大学校家政学部卒業 太平洋...
(2003.10.21読了)(2003.09.19購入) 副題「愛の伝説に封印された発狂の真実」 長沼智恵子 1886年5月20日 福島県安達郡生まれ 1903年 福島高等女学校卒業 日本女子大学校普通予科入学 1907年 日本女子大学校家政学部卒業 太平洋画会研究所に通い始める 1911年 「青鞜」創刊、表紙絵を担当 高村光太郎と会う 26歳 1914年 結婚披露 29歳 1933年 入籍 48歳 1938年10月5日 死去 53歳 1941年 「智恵子抄」刊行 この本の著者は、写真として残された、光太郎の彫刻「智恵子の首」の一種異様な存在感を起点にこの本を書いたという。石膏の塑像で、写真集の解説者は、「初々しい情感にあふれている」と述べているにもかかわらず、著者は、生々しいという。 最後まで読み通してみたが、著者の言いたいことがよくわからなかった。著者もはっきりした結論が述べられなかったのではないだろうか?本の副題など気にせず単に智恵子の伝記として読む分には、よく書かれている本といっていいと思う。 ということで、この本のレビューは打ち切りにして智恵子についての自分なりの考察を述べることにする。 ●与謝野晶子と高村智恵子 晶子は、1878年生まれということなので、智恵子より8歳年上である。「青鞜」創刊のときには、智恵子は表紙絵を担当し、晶子は、巻頭詩「そぞろごと」を寄稿している。その詩は、「山の動く日来る。」で始まり、「眠りし女今ぞ目覚めて動くなる。」へと続く力強いものだ。 旦那がいずれも生活力がない点は共通しているが、晶子は短歌、詩、評論、童話の創作とできる事は何でもしながら、生活を支え子育てもしてゆく、旦那の新しい創作のために、パリに送り出しておきながら、離れていることに耐え切れず、子供を預けてあとからパリまで追いかけていってしまうという行動派。 一方智恵子は、旦那は彫刻家、自分は絵描きを目指していたのだが、二人とも制作をしていると、食事ができない、等の理由で、片方(智恵子)は制作活動をあきらめざるを得ないことになる。子供は、いなかった。智恵子は子供のできない体だっだのか?病気がちだったからか?子供がいたらもっと別の展開もありえたのではないか・・・。ないものねだりしてもしょうがないのだけれど。 1931年(智恵子46歳)のとき光太郎が長期の取材旅行で留守の時、智恵子は、精神の変調を来たす。元気だったら晶子同様追いかけていったかもしれないが病気がちな身にはそれもかなわなかったということか。 与謝野晶子と高村智恵子を比較してみると実に対照的であることに気付く。 ☆関連図書(既読) 「智恵子抄」高村光太郎著、龍星閣、1941.08.20 「智恵子抄その後」高村光太郎著、龍星閣、1950.11.20 「智恵子抄」高村光太郎著、新潮文庫、1956.07.15 「高村光太郎詩集」高村光太郎著・伊藤信吉編、新潮文庫、1950.11.20 「レモン哀歌」高村光太郎著、集英社文庫、1991.01.25 「小説智恵子抄」佐藤春夫著、角川文庫、1962.02.20
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