本の虫ではないのだけれど(1) の商品レビュー
6月のなかばに、たまに行くわりと大きい本屋をぶらぶらしていて、この『本の虫ではないのだけれど』を見かけた。読みたいな~と思ったが、図書館の本も立て込んでたし、控えておいて図書館へリクエストしていた。 数日前に図書館に届く。 今年1月にあった青学での「最後の授業」の記録をはじめ...
6月のなかばに、たまに行くわりと大きい本屋をぶらぶらしていて、この『本の虫ではないのだけれど』を見かけた。読みたいな~と思ったが、図書館の本も立て込んでたし、控えておいて図書館へリクエストしていた。 数日前に図書館に届く。 今年1月にあった青学での「最後の授業」の記録をはじめ、古いものは1976年、さまざまな場で機会があって書いた、テーマも長さもばらばらの文章群が、本になったもの。必ずしも本の紹介や書評ではないのだが、この本を読んでいる間に、ああこれは読んでみたいなと思った本や、むかし読んだことがある本でまた読みたいなと思った本が多くあった。 シンガーの『よろこびの日』に登場する洗濯ばあさんのような、はなばなしい大きな仕事ではないが、すみっこの目立たない仕事をきちんと果たしている人々のことを清水は書きとめている。「こういう人たちのおかげでこの世は辛うじて崩壊を免れているのだ」と、そういう善き人々のすごさを描いた物語の力にずっと気づかずにきたと、清水は記す。それは、別のページで書き抜いてある、大村はまの言葉「人間、やりたいことをやるのも大事なことだけど、やりたくないことでも、やるべきならするようでないと、世の中困ってしまうでしょう」にも、あるいは山田太一にふれて書かれている「凡庸に着地すること」にも通じるように思った。 子どもの頃、夢中になって物語を読んでいたときの幸せを、大人になって「物語を通して、希望という足場をたしかめ、しかと踏みかためていたのかもしれない」という清水は、子どもにとって、情報化社会を生きていかざるをえない自分たちにとって、本とは何か、何でありうるかと問いつつこう書く。 ▼今、子どもたちはどうやって「外部」と出会っているのだろう。どうやって空間をこえ、時間をこえて、人とつながっていっているのだろう。人間への信頼がぐらついた時、呼吸している世界が空気が薄く、たしかなものとは感じられなくなった時、希望など手ばなしてしまえ、と「どうせ」という言葉が耳もとでささやく時、どうやってその声に抗い、信頼の糸をたぐりよせているのだろう。(pp.66-67) 「最後の授業」のなかで、自分の子ども時代をふりかえってこうも書いている。 ▼子ども時代の私にとって、本は窓だったのだと思います。閉じ込められて、部屋に入れられて、子どもは息苦しいわけです。外を見たい、いろいろなものを見たいと窓辺に寄って窓を開けると、つまり本を開くと、そこにいろいろな世界があり、いろいろな人たちがいる。私はかすかに記憶しているのですが、「そうか、遠い国にも私たちと同じ人がいるのだな」と思ったものです。笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだりしている人間が、他所の国にもいるということを知ったのは、私にとって大きな力となりました。後から考えて整理して言えることなのでしょうが、子ども時代の本は広い世界への窓、あるいは不思議な世界への窓の役割をしてくれたのだろうと思います。(pp.31-32) 読んでみたいと思った本 『ゾリ』 『灰色の畑と緑の畑』 『愛について』 『じゃがいも』 『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』 『つばさの贈り物』 『夜』 『片手いっぱいの星』 『幼い子の文学』 『火を掘る日日』 『さらば卓袱台』 『言葉の海へ』
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