ショパンとサンド の商品レビュー
ショパンがサンドと付き合って別れたころ、残っている書簡を中心にしてまとめてある。 読んでいて悲しくなった。 冷静で常識的で、虚飾のない質実なショパンの人柄が浮かんだ。 サンドと知り合う前の想い人のマリアの家族の婚約の断り方も、ずるいように思っていたが、そこに現れてたサンド、マリア...
ショパンがサンドと付き合って別れたころ、残っている書簡を中心にしてまとめてある。 読んでいて悲しくなった。 冷静で常識的で、虚飾のない質実なショパンの人柄が浮かんだ。 サンドと知り合う前の想い人のマリアの家族の婚約の断り方も、ずるいように思っていたが、そこに現れてたサンド、マリアの代わりにはならなくても、慰めや安らぎになっていたと思うが、 後にサンドの自衛のために事実を曲げて人に話す性格を前にしても ショパンはただ傷ついて自分を消耗して耐えているような印象を受けた。このサンドと付き合った、7年か8年の間に、たくさんの傑作が生まれたという。実際の日々は、私たちの想像のできない安らぎも喜びもあったと思われるが、この本を読んでいると、私はショパンの静かに耐える姿を作り悲しい気持ちになった。
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図書館の本 内容(「BOOK」データベースより) ヨーロッパいちスキャンダラスな女といわれた作家ジョルジュ・サンドと、天才音楽家でありながら控えめで品行方正なショパンとの、ある意味不可解な結びつき。本書は歪められた俗説を排し、現存する資料をもとに客観的な視点でふたりの軌跡をたど...
図書館の本 内容(「BOOK」データベースより) ヨーロッパいちスキャンダラスな女といわれた作家ジョルジュ・サンドと、天才音楽家でありながら控えめで品行方正なショパンとの、ある意味不可解な結びつき。本書は歪められた俗説を排し、現存する資料をもとに客観的な視点でふたりの軌跡をたどる。生誕200年を機に改めて考える人間ショパンの真の姿。 今まで読んだ本とはかなり切り口が異なっていておもしろかったです。ショパンの手紙そのものより、サンドの研究が進んで色々わかったというのがおもしろい。 どう見ても、あの二人はうまくいくの?っていう二人だけど大人の関係で成り立ったのだとあらためてわかることがたくさんありました。 そしてやっぱり「雨だれ」は被害妄想の産物なのね。 ショパンがかんしゃくを起こすというのも新発見でした。
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(2010.05.19読了)(2010.05.12借入) この本の初版が出たのは1982年12月10日。2010年は、ショパン生誕200周年ということで、改訂の必要と思われた数か所について書き直し新版として出版。 ショパンとサンドのロマンスについて「なるべくオリジナルな資料に基づ...
(2010.05.19読了)(2010.05.12借入) この本の初版が出たのは1982年12月10日。2010年は、ショパン生誕200周年ということで、改訂の必要と思われた数か所について書き直し新版として出版。 ショパンとサンドのロマンスについて「なるべくオリジナルな資料に基づいて客観的に彼らのロマンスの歴史を辿っていくことを目指し、彼ら自身の言葉を中心に綴っていくことにした。」(218頁) 使用した資料は、手紙とサンドが書いた「マヨルカの冬」「わが生涯の歴史」。 ショパンは、父がフランス人、母がポーランド人、の二人目の子供として1810年3月1日に生まれ、ワルシャワで育った。19歳で、ワルシャワ高等音楽学校作曲科を卒業した。 1831年10月、パリにやってきた。1936年9月、ポーランド人のマリア・ヴォジンスカ嬢に求婚している。 この年の10月末か11月初めにショパンは、リストの紹介でジョルジュ・サンドに紹介された。ショパン26歳、サンド32歳であった。 1837年7月、ショパンとマリアの結婚は破談となった。 サンドは、ショパンを好ましく思っていたようだが、ショパンはサンドをあまり好ましい女性とは思っていなかったようだ。ショパンはサンドと接するうちに次第に心惹かれて行ったようだ。 二人は愛し合うようになった。(1838年5月ごろ) サンドは、肉体的な愛について「すべての創造の中で、最も聖らかで、最も尊敬に値するもので、神聖な神秘にして、万物の生活の中で最も崇高で最も真面目な行為」と書いている。(32頁)(さすがに作家です。) 1838年7月、ドラクロワのアトリエでショパンとサンドの肖像画が描かれた。ドラクロワは、サンドの友人で、この後、ショパンとも親しく交際している。ドラクロワは音楽を愛好し、ショパンと同様、モーツァルトとバッハを愛していた。(83頁) 二人を描いた絵は、二つに切り分けられ、別々の美術館に所蔵されている。 1838年11月から、二人は、スペインのマヨルカ島で過ごす。寒さのため、ショパンの胸の病が悪化した。(肺結核だったらしい) マヨルカ島には、サンドの二人の子供、15歳の息子モーリスと10歳の娘ソランジュも一緒に行って生活している。 1839年2月中旬、マヨルカからバルセロナに移動し、マルセイユに移動した。5月下旬にサンドの館のあるノアンに向け出発した。 1839年6月から二人は、ノアンで過ごす。10月には、パリに戻った。 サンドは、ショパンの作品について「ショパンの天才は、いままで存在した天才の中で最も深く、最も感情が豊かである。彼は一つの楽器に永遠の言葉を語らせるのに成功し、子供でも演奏可能なわずか数十小節の音楽に、限りなく高揚された詩と、並ぶもののない力に充ちたドラマを、しばしば要約している。」と述べている。(92頁) (僕には、残念ながらここまでの感受性がないので、充分聞きとることができないのが残念です。) 1847年春まで、二人は、パリとノアンを行き来しながら過ごした。 サンドの娘ソランジュと彫刻家のクレサンジェが5月19日にノアンで行われた。ショパンは、体調がよくなかったので出席していない。 ソランジュのことで、サンドとショパンの間で、行き違いがあったようで、以後、サンドとショパンは別れた。 1848年4月、ショパンはロンドンに行き、スコットランドまで足をのばし、11月にパリに戻った。1849年10月17日、ショパンは息を引き取った。その時、サンドはノアンにいた。ショパンの葬儀にも参加しなかった。 9年に渡ってショパンの面倒を親身になってみたサンドは、自分の息子や娘のことでは、冷静な判断が出来なかったのでしょうか。 ショパンとジョルジュ・サンドに興味のある方には、なかなか読みごたえのある作品と思います。二人の生活の様子が分かるのではないでしょうか。 ◆ショパン(1810-1849) ポーランドの作曲家・ピアノ奏者。1831 年以後パリを中心に活躍し、華麗なうちにロマン的な憂愁に満ちたピアノ音楽を創造し、ピアノの詩人と呼ばれた。 [大辞林より] ◆ジョルジュ・サンド(1804‐76)フランスの女流作家。パリ生まれ。4歳で父を失い、中仏ノアンで父方の祖母のもとで成長、13歳から2年余、パリの修道院で過ごす。18歳で結婚するが、1831年、二人の子を残してパリに出、小説家サンドオと同棲、共作で小説を発表、これを契機にジョルジュ・サンドを筆名とした。 (中公文庫「愛の妖精」より) ☆関連図書(既読) 「ショパン」遠山一行著、新潮文庫、1988.07.25 「愛の妖精」ジョルジュ・サンド著、岩波文庫、1936.09.05 (2010年5月23日・記)
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