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選書日本中世史(1) の商品レビュー

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2016/11/19

著者は誰に対しても喧嘩をふっかけずにはいられないたちのようで、舌鋒鋭くコテンパンに批判していく筆致は大変小気味好いが、一方で私怨に満ちたひどく個人的な話題を個人的なたとえ話を持ち出して語り出すところなど、曲がりなにりも学問書として世に問うている書物としてどうなのかということが気に...

著者は誰に対しても喧嘩をふっかけずにはいられないたちのようで、舌鋒鋭くコテンパンに批判していく筆致は大変小気味好いが、一方で私怨に満ちたひどく個人的な話題を個人的なたとえ話を持ち出して語り出すところなど、曲がりなにりも学問書として世に問うている書物としてどうなのかということが気になって肝心の中身があまり頭に入ってこなかった。 学問に対する姿勢として、地道な実証が重要であるということ、それを抜きにした学問は畢竟砂上の楼閣であるとの主張はある程度首肯できるものである。しかし、そこは役割分担の問題ではなかろうかという気もする。著者は結局のところ権門体制論に対する自身の理論を全く示しておらず、その手がかりとしての史実を積み重ねたに過ぎない。権威よりも暴力が重要だと言ってみたところで、それは盾の両面でありどちらが欠けても機能しないのだから、鎌倉幕府があれば朝廷がなくても同じ歴史になったとは到底いうことはできないし、それこそ著者の批判対象とするところの浅薄な歴史認識であるというべきである。

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2018/10/19

150627 中央図書館 基本的には史料実証で中世を専門とする著者なので、思想軸に基づいて史料を取捨選択して「面白い」解釈を描出するような史学に批判的なところが面白い。網野史学に対しても、その危うさを指摘しているし、思想軸で語る学者は右でも左でも同じ肌触りになる、という感覚には実...

150627 中央図書館 基本的には史料実証で中世を専門とする著者なので、思想軸に基づいて史料を取捨選択して「面白い」解釈を描出するような史学に批判的なところが面白い。網野史学に対しても、その危うさを指摘しているし、思想軸で語る学者は右でも左でも同じ肌触りになる、という感覚には実感がある。 また、もののふ、などといっても、結局は殺人暴力嗜好者ではないか、というのも、うなずけるところ。

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2018/08/16

 基本的には東国国家論からの権門体制論批判、実証主義からの「皇国史観」・史的唯物論批判の啓蒙書。鋭い指摘もあるが、変にくだけた嫌みたらしい語り口が台無しにしている。

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2012/03/26
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メモ 唯物史観に変わるものがない 日本史は応仁の乱以降を学べば足りる、天皇制は近代の産物 源頼朝は東国の王 鎌倉幕府は1180年に成立とみなす 権門体制論に反対 武を遠ざけ文を重視、世襲 平安時代-果たして平和だったのか? 後鳥羽上皇-大内惟義、藤原秀康 鎌倉時代の朝廷は幕府とルートを持った九条氏、西園寺氏が力を持ったといわれるが、上皇も独自にルートを持ち、そうともいえない 武士は同時に複数の主人に仕えた 頼朝は御家人の任官に否定的=謀反の可能性 平家の福原幕府が鎌倉幕府の見本・・・双方知識、経験不足 武が文に挑む 江戸幕府、現代のような整然としたオフィス、組織ではなく、仲間うちの会 皇国史観は都合の悪い歴史を黙殺 一神教に対抗した神仏分離 信仰、シンジルベキ宗教 批判や議論ができず思考停止 証拠がなければ事実とは言えないか →実証性の問題は難しい 面白いのと事実は違う

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2010/12/18

本郷和人は、近年わかりやすい中世史(鎌倉時代の武士を中心とする)を書いている。この講談社選書メチエの「選書日本中世史1」も概ねわかりやすい。ただし、終章は私にはちょっと…(汗)。 ●鎌倉時代の御家人は、西国で一国30人ほど、東国でも140人ほど。 ⇒少ない!(ただし、これは惣領...

本郷和人は、近年わかりやすい中世史(鎌倉時代の武士を中心とする)を書いている。この講談社選書メチエの「選書日本中世史1」も概ねわかりやすい。ただし、終章は私にはちょっと…(汗)。 ●鎌倉時代の御家人は、西国で一国30人ほど、東国でも140人ほど。 ⇒少ない!(ただし、これは惣領のみ<将軍と主従関係を結んで いるのは、惣領のみ>で、その下に庶子や子供たちがいるので、 幕府配下の武士の数はもっと多い) ●一所懸命の実例:平安時代末期(院政期)、藤原顕季が陸奥国菊田 荘(現在の福島県いわき市南部あたり)の所有権を源義光と争っ ていたが、白河上皇が裁定を出さないので、不審に思った顕季が 上皇に尋ねると、「汝に理があるのは明らかだが、汝の持つ荘園 は一つではないと思うが、義光はあの荘園に命をかけている。道 理に従って裁定した時、義光が何をするかわからないぞ!」と答 えた。顕季は上皇の言うとおりに義光に荘園を譲った。  ⇒結果、義光は顕季に家来になるべく誓約書(名簿)を出したそ うで、夜の警備も勝手にするなど忠節をつくしたそう…。  (出典は『十訓抄』・『古事談』) ●兼参(複数の人間に仕えること):本来天皇に仕える実務貴族(中   級)は、その能力で院にもつかえた。結果、院は彼らを政治   舞台へと進出させた。上級貴族は仕事を奪われて大いなる不   満を持った。そのエネルギーで書きあげたのが、北畠親房の  『職原抄』である。 ●頼朝の恐れたこと:武士たちは荘園を基盤として生活を組立ててい た。荒野を開発して耕作に適した私有地を造成し、その地を中央 の有力者にささげて荘園とする。自身は現地の責任者となって実 質的な支配を展開しその地位を子々孫々に伝えていく。だから、 武士たちは(源義光に見たように)、荘園領主である皇族・貴族 や大寺社との関わりを、深い浅いはあっても必ず有していた。(中略)彼ら(荘園領主)が考えを改め、能動的に振舞い始めたら どうか。土地を給したり官職を与えたりしながら武士に恩恵を下 賜し、従者として取り込みを画策すればどうか。それは鎌倉の  「武」の勢力にとっては、まことに厄介な事態になる。献身を求 める鎌倉殿との苛酷な関わりを嫌い、京都へと回帰する。そうし た御家人が多く現れたら、誕生したばかりの脆弱な武人政権はた ちまち崩壊してしまうであろう。 ⇒義経にきつく当たった頼朝の恐れたことがこれであった。それは よくわかる。実際に朝廷側がなぜこうしなかったか、頼朝がなぜ うまく組織を作れたのか? ●水戸学と水戸黄門:徳川光圀は、後醍醐天皇とその子孫である吉野 の南朝を天皇家の正統と位置付けた。それゆえ、後醍醐天皇の孫 に当たる後亀山天皇が北朝の後小松天皇に南朝の神器を譲り渡し たとき、1392年をもって天皇の嫡流は廃絶する。その後も天皇は 存続するが、天下を治めるのは「将軍ー武士」の役割になる、と 構想していたという。 ⇒納得する解釈で、水戸黄門は「天皇家嫡流は南朝最後の後亀山天 皇 をもって滅んだ、とする「南朝正統論」を打ち立てた」でい いと思う。

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