怪訝山 の商品レビュー
凝った装丁が目を引いた。 苔か樹液のような緑色の液体が、何筋も表紙の上から下に垂れている。指で触れてみるとその筋だけ盛り上がっていて本当に何かが垂れているみたいだ。『怪訝山』というタイトルも、その何かが垂れているところはぼやけて滲んでいる。その下にスーツ姿の男が横たわってい...
凝った装丁が目を引いた。 苔か樹液のような緑色の液体が、何筋も表紙の上から下に垂れている。指で触れてみるとその筋だけ盛り上がっていて本当に何かが垂れているみたいだ。『怪訝山』というタイトルも、その何かが垂れているところはぼやけて滲んでいる。その下にスーツ姿の男が横たわっている。いかにも怪訝な感じで、「これはいいかもしれない」と思った。 こんなに凝っていて、それがいいと感じたのは川上弘美の『真鶴』の単行本以来かもしれない。 垂れた筋と同色の帯の色もまたいい。だが絶対に許せないのは、「わけいって、深く入っておいで」だの「横溢する生と性の渦」だとかいう帯に書かれた文句である(帯にはさらにエグい表現も引用されているが、おぞましくてここには書けない)。 小池昌代は詩人だ。だからだろうか、詩のようにさらりと静かで透明な物語である。『タタド』も『裁縫師』も『感光生活』もそうであった。この『怪訝山』に収められた三篇も勿論そうだ。講談社が帯につけたエロ剥きだしの宣伝文句は、本を売るためには役立つかもしれないが、作品の真の魅力を感じとることができる者には「全然違うだろ」と言われても仕方ないだろう。 風呂のお湯が排水口から抜けて、最後の瞬間に渦を巻く。そんなシーンを詩人小池昌代は「イキモノのような湯のしっぽが、くるりと暗い穴の中へもぐりこんで消える。その瞬間を、わたしは見る」と歌う。そのメロディーは短い息継ぎで繰り返されるリズムで構成され、いかにも肺活量の小さな女性らしい文だ。 さらに彼女の文を彩るのは、鋭敏な皮膚感覚と他者の中に“相容れない”のに「入っていく感覚」であろう。その表現が男が女の中に入っていく場面で現れると、「エロ」と表層的には同一に見える。だが、小池文学のコアはもっと深い。哲学といっていい。 『感光生活』にあった、石を愛する女は、「石とわたしは、どこまでも混ざりあわない。あくまでも石は石。わたしはわたしである。石のなかへわたしは入れず、石はわたしに、侵入してこない」と独白する。そしてそのことが、「かえってわたしに、不思議な安らぎをあたえてくれる」という。 『怪訝山』の三篇に共通して流れているのが、「入れそうで入れない」なんとなくな違和感と同時に、「なぜだか自然に入ってしまう」不思議な同一感の、こればかりは誰も真似できないと思える絶妙な雰囲気だ。 表題作である『怪訝山』の男は、山なのか山のような女なのかわからぬ女の中に、自然に何度も何度も入っていく。 二篇目の『あふあふあふ』では、どうにも現実に現実感が持てない老人に、「汚名」「冤罪」という形で現実の方が分け入って来る。そこのことが老人には、喪失感からの救いで あったりする。 そして最後の三篇目が『木を取る人』なのだが、私はこれが一番秀逸だと思う。 三篇中これだけが女性が語り手である。舞台は木場の辺り。多分著者が幼年期を過ごした街であろう。肉体的に「受け入れたいが受け入れられない」欠陥を有する「わたし」と夫との、近くて遠いが離れもしないような関係。わたしと義父の深い交わり。小池流の「入れないのに入っちゃう」哲学をもってしてでなくば、絶対に描き得ない人間情景である。 私が一番好きだったのは、一時期流行したといういびつな真珠についての表現だ。 「ひとつひとつの粒が、海にいじめられて、少しすねたように、魅力的に変形している。ひとつとして同じ形のものは見当たらない。いじめられたといっても、ほんとうは愛が変形して、そんなかたちになったように思われた。それは、奇妙な愛のかたちだった」 ここでは、『感光生活』のときには互いに相手の中に入ることができぬ石とわたしが、海と真珠として、脅かし脅かされる関係であると同時にひとつの愛の形として表現される。 そして、やはりその真珠に触れて、わたしはこういう。 「しかしそのゆがみを指で触ると、わたしは妙に心が落ち着いた」 やはり哲学といっていい境地である。 これを「エロ」小説扱いで売ろうとする講談社は、相当に頭が悪いか、相当にずるいかのどちらかだ。 真の小池昌代愛好家は、帯を外してから書棚に愛蔵しなければなるまい。
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『気が付くというのはこのように、最初はいやいやでも、ひとつの世界に身を投じ、経験を重ねてきたひとだけにやってくる、いわば恩寵の、瞬間なのである』-『あふあふあふ』 『わたしのいう「気づき」は、もっと淡いもので、だから予感というよりも、アキラメといったほうがいい。そう、刹那のアキ...
『気が付くというのはこのように、最初はいやいやでも、ひとつの世界に身を投じ、経験を重ねてきたひとだけにやってくる、いわば恩寵の、瞬間なのである』-『あふあふあふ』 『わたしのいう「気づき」は、もっと淡いもので、だから予感というよりも、アキラメといったほうがいい。そう、刹那のアキラメ。そうなるということがわかっている。でも、それを前もってどうすることもできない』-『木を取る人』 短編集の中で、作家の個性の変化と呼べるようなものが存在する、と感じる。奥附けを見ると、その間に月日の隔たりがあるのがわかる。やっぱり。その変化は詩人から小説家へのまなざしの変化であるのだろうか、と訝しむ。 例えばその変化は、一瞬毎に切り取られたポートレート(あるいはそれを箱庭と呼んでもいいかも知れない)をじっくり見つめるような視線から、リアルタイムで変化する世界と次々に沸き上がる感情の間に横たわる関係性へ向けられた視線への変化、と言ってみることもできるように思う。あるいは、全てを自分の手で、頭で、思考で制御できると思っている世界観から、自分では制御できない環境の中で生かされていると考えている世界観への変化、と言い換えてもよい。 制御可能と思っている世界の中での未来予想は、全てが想像の範囲内である。しかし、その容易にたどり着ける結論への道筋を、どこまでも細分し、微分化された答えの、その一瞬のヒラメキの、刹那的魅力に、ぐっと引き寄せられる。それはある意味退廃的な美に通じる魅力でもある。一方で、制御不可能な世界の未来予想は推定可能な限界の外側にのびていく。ただ生かされていると思うこと、不思議とそこには自暴的には響かないアキラメが清しく顕われる。追いかければ遠ざかるけれども、存在しない訳ではない虹の橋のように。 それでも、詩人・小池昌代の比率の高い短篇に、未だに自分の心は惹かれているのも事実。自分にとって「気づき」は、まだまだ「恩寵」になる気配はなく、アキラメに近い感覚。自分の生々しさに、改めて気づかされた。
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「タダト」が思い浮かぶ。 独身のイナモリは、絵画販売会社の女性営業(引き込み)の管理をしている独身男。 なんだかしまらない生活をしているが、月に一度は伊豆の温泉に出かける。廃業寸前の寂れた旅館の仲居はイナモリより年上のようだが、男女の関係となりおぼれていく。 女は山のように肥大...
「タダト」が思い浮かぶ。 独身のイナモリは、絵画販売会社の女性営業(引き込み)の管理をしている独身男。 なんだかしまらない生活をしているが、月に一度は伊豆の温泉に出かける。廃業寸前の寂れた旅館の仲居はイナモリより年上のようだが、男女の関係となりおぼれていく。 女は山のように肥大して男を飲み込む、あるいは包み込む・。 表紙のスーツ姿で首に手を回しながら横たわる男の姿・・。読後感はあまり勧められたものではない。
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またまた魅せてくれた小池ワールド。 ひらがなやカタカナ表記をとりまぜて書かれた独特の世界。「イナモト」と書かれた瞬間、それは「イナモト」でなければいけないと思わせられる。 「木を取る人」の義父はとくに魅力的だ。一瞬ふれた足をさっとひっこめるような、粋でいなせでシャイな人。...
またまた魅せてくれた小池ワールド。 ひらがなやカタカナ表記をとりまぜて書かれた独特の世界。「イナモト」と書かれた瞬間、それは「イナモト」でなければいけないと思わせられる。 「木を取る人」の義父はとくに魅力的だ。一瞬ふれた足をさっとひっこめるような、粋でいなせでシャイな人。職人としてひとかどの人は人間としても滋味深い。爪をブラシで洗う場面、北帰行を玄関で歌うところ、廊下の掃除ぶりなど印象的だ。 義父がいなくなってから夫力丸とのバランスが不安定になるあたりがとくにおもしろかった。
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