共同体の基礎理論 の商品レビュー
近年、さまざまな方面から「共同体」の役割が見直されつつあります。それは、情報化の進展による個人社会化への不安や、わたしたちが基層としてきた人間と自然との関係への関心の高まりに端を発するものです。とくに日本においては、ローカルな共同体としてのムラを基盤として人間生活が営まれてきまし...
近年、さまざまな方面から「共同体」の役割が見直されつつあります。それは、情報化の進展による個人社会化への不安や、わたしたちが基層としてきた人間と自然との関係への関心の高まりに端を発するものです。とくに日本においては、ローカルな共同体としてのムラを基盤として人間生活が営まれてきました。しかし近代以降、こうした共同体が国家や社会の名のもとに批判され、解体されてきました。このような歴史的経緯をもつ日本において、コミュニティへの関心が強いことは、ごく自然なことだといえるでしょう。 著者は書中で「多層的共同体」という概念を説きます。このことばが示すように、本来、共同体とは一対一の関係性で捉えられるものではなく、複数の層が重なりあって存在しています。たとえば、ムラでの生活に欠かせない生産のための共同体、信仰をともにする人々の共同体など…。親戚関係や趣味仲間のような、ムラの範囲を超えた共同体も存在可能でしょう。そうしたさまざまなスケールのたくさんの共同体が、個人を内包して存在しているのです。そして、共同体が個人の能力を引き出したり、個人にとってかけがえのない場所となってきたのです。 昨今では、さまざまな理由からそうした共同体から個人が「離脱する」動きが加速しているように思います。一方で、共同体が個人を「排除する」動きも顕著にみられます。しかし、それは共同体を単層的、あるいは単一的にみる視点が蔓延してきているからのように思えてなりません。いろいろな側面から共同体を見つめなおす視点、自身がさまざまな共同体で生きている、という視点が、日本に住むわれわれ一人ひとりにとって大切になってくるのではないでしょうか。 人付き合いやコミュニティの問題に関心のある方に、ぜひ一読を薦めたい本です。 (ラーニング・アドバイザー/地球 SUZUKI) ▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1380259
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☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB01577536
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村落の共同体(コミュニティ)とは何か。 近代の弊害がもたらす環境破壊、資本主義や中央集権の統治の問題をどうするか難題であるけど、空想的な解決策でなく、村落に通い詰めたなかで、人間と自然との関係の歴史が分かる。 そこから、未来へのヒントにしていこうというもの。 正直、とても難しか...
村落の共同体(コミュニティ)とは何か。 近代の弊害がもたらす環境破壊、資本主義や中央集権の統治の問題をどうするか難題であるけど、空想的な解決策でなく、村落に通い詰めたなかで、人間と自然との関係の歴史が分かる。 そこから、未来へのヒントにしていこうというもの。 正直、とても難しかった。 この本にある歴史的な農村社会は失われていることだし、イメージしにくい。 (というこで、宮本常一の「忘れられた日本人」を読んでみる) 結、講などの相互扶助の仕組みは、ヒントがあるように思った。 例えばNPOバンクや信用金庫など、もとをただせば「無尽」の精神に関わってくるのだろうか? そうなると、お金について知りたくなる。 お金に意志を持たせることは可能なのか? そのために、何が課題となっているのか、、、 顔の見える範囲(数百人規模)での金融はビジネスとして可能なのか? 地域通貨との関わりは、、、etc 内山節が哲学者ゆえに示唆が多い本。
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家族とか地域社会を再確認するために、とても読みやすく内容が整理されている。 誰にとってもそうかも知れないが、私にとってはまず161ページの最後の章から読み始めたい本である。 P188の四行目からにある言葉、『むしろ「知」の営みが個体的に成立しているのか、それとも関係性に成立し...
家族とか地域社会を再確認するために、とても読みやすく内容が整理されている。 誰にとってもそうかも知れないが、私にとってはまず161ページの最後の章から読み始めたい本である。 P188の四行目からにある言葉、『むしろ「知」の営みが個体的に成立しているのか、それとも関係性に成立しているのかを解くことを課題にしていた。「知」の営みが関係を通してしか成立しないのに、人間はそれを個体の働きととらえる精神の現象学を問題にしていたのである。 その意味では日本の伝統的な人間の捉え方と同じんになり始めていた。ただし日本の伝統では「私」を個体制に求め、そこに悲しさを見ていたのに対し、現代哲学では「私」はあくまでも肯定の対象であり、環境の中に成立するものとしてとらえた。伝統的日本では「自ずから然り(自然=じねん)」のままに展開する関係的存在としての人間は「私」の外にあるのに対して、現代哲学は人間を一つの本質の中にとらえて個体制から関係性に移行させたのである。 知性や身体性が関係的な存在であるなら、その対象は他者であり、自然であり歴史や文化や信仰でもある。 こうなると何が進んだ文明なのか遅れているのかわからなくなる。 ここで私が気になるのは、「すべての文化は平等である」とレビーストロースによって宣言されたことに対して、彼は必然だと言っていることである。本来ならば対等と表現してほしいがせめて等価と言うべきだと思うし、文化を比較するべき物として扱うことに私は疑問がある。 普通の人は顔と名前を結び付けられる数が400人前後だと言う。(多分人となりをイメージできるのは200人前後ではないだろうかと私は思う。)従ってコミュニティーの大きさも視野を行き届かせるられるその辺が適当なのだろう。 心が知性や理性や悟性と感情と意志の三つの要素を持つと言われ、この知情意のそれぞれを巷ではランク付けようと争っているが、本質的な心に差別など必要なく様々な人間性をトータルして発信する場でしかないのでないだろうか。
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読了。本書に記されているような視点って、いわゆるネットの議論ではほとんど表に出ないように思う。内山節の問題意識がよく見通せる好著。
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