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キリスト教養育 の商品レビュー

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2021/03/26

クリスチャン自らの子どもがクリスチャンとして育っていかないのはなぜなのか?鋭い指摘は19世紀の牧師の言葉。反省させられるところしきりの内容。幼児洗礼は聖書には書かれていないが、むしろユダヤ教世界の慣習としては当たり前だったものが、キリスト教に取り入れられていることであり、当然想定...

クリスチャン自らの子どもがクリスチャンとして育っていかないのはなぜなのか?鋭い指摘は19世紀の牧師の言葉。反省させられるところしきりの内容。幼児洗礼は聖書には書かれていないが、むしろユダヤ教世界の慣習としては当たり前だったものが、キリスト教に取り入れられていることであり、当然想定されるという説明が凄く説得力がある。子どもを異邦人、罪人として受け入れてはいけない!形式的な信仰生活、祈り、子どもの楽しみを奪う態度…。19世紀から今と同じ結論が見いだされることに驚き。 P121の次の言葉はホッとする救いのように感じられた。「クリスチャンの親は、時々子どもたちに、自分たちの欠点や弱点を自由に話すべきである。このことは、これまで示してきた教えから適切に導かれる結論であるように思われる。親が信仰深くても、クリスチャンとして生きても、キリストの精神が家のなかで統治力を示しても、親には依然として欠点があるだろう。だからこそ、その事実を秘密にすべきではない。むしろ、次のような印象がつくられるべきである。すなわち、親は自分自身弱点と苦闘していること、これらの弱点を感じて謙虚であること、神が特赦すべき多くのことが親にはあること、子どもたちに人目に見て許してもらうべき多くのことがあること、そして、親が自分と家族をより良い世界へ次第に導くには、神のみが助けることができる、という印象がつくられるべきである。子どもたちに対していつもささいな過失と川について説教する代わりに、時々は親自身の過失と罪について話すほうが良い。もしも正しくなされるならば、これは、子どもたちの親しい共感をよび、親があやまちを犯す時にしてしまう、人を傷つける印象に抗して親を守り、そして、天国への共同の闘いにおいて全家族を結びつけてくれる。」

Posted byブクログ