山と水の画家 吉田博 の商品レビュー
吉田博は明治から昭和にかけて活躍した風景画家である。しかし、その名は国内よりもむしろ国外の方で知られていたようで、現にダイアナ妃の執務室にはかれの絵が飾られていた(証拠の写真がある)。国内で知られていないというのは、かれの出身地である久留米美術館にかれの絵が一枚もないということか...
吉田博は明治から昭和にかけて活躍した風景画家である。しかし、その名は国内よりもむしろ国外の方で知られていたようで、現にダイアナ妃の執務室にはかれの絵が飾られていた(証拠の写真がある)。国内で知られていないというのは、かれの出身地である久留米美術館にかれの絵が一枚もないということからもわかる。ぼくも四十年来の友人から教えられなければ、一生出会うことのなかった画家である。かれは元々上田姓だったが、女の子ばかりだった吉田家に養子に入り(のちその三女と結婚する)、その義父の影響もあって画家を志し、東京へ出て修行を積む。その修行は写生を主にしたようで、かれは友人と人がまだ踏み分けていないような山に籠もり、山の絵を写生し続けた。明治のころの画家たちはやはり西洋にあこがれたようで、官費で行けなかった吉田は、友人の一人と連れ立ち、片道の船賃、一月分の生活費だけを親戚からかり集め、アメリカのサンフランシスコへ向かう。ふつうなら、そこで皿洗いをしながら苦しい生活をするところだが、吉田らはついていた。訪ねて行った人が休暇でおらず、仕方がないのでとりあえず訪ねたデトロイト美術館の館長は、かれらの水彩画に興味を覚え、そこで展示会をするようはかってくれた。それがとても好評で、絵が大量に売れ、彼らはその後の滞在費とヨーロッパに渡るお金まで手にすることができたのである。これは幸運だったと言わざるをえない。その後、かれはのちの妻になる画家のふじを(吉田家の三女)を伴い、再度アメリカに渡る。兄妹二人展を開くためで、これもおおむね好評であった。そして、かれは帰国後、国内では官費留学生である黒田清輝、久米桂一郎らと対抗し、自分たちの流儀を通していった。吉田の風景画のうち特筆すべきは山の絵で、これは若いときの修行もあるが、欧米からの帰国後もやはり山へ登り、山の絵を描き続けた。次男にも穂高という名前をつけているほどだ。それは、自然を客観的な対象とせず、人は自然と一体にあるというかれの自然観とかかわるもので、自然の息吹を絵の中に描きこもうとした。吉田の絵は全体としては油彩画が多いが、ぼくは水彩画の方が好きだ。また、吉田は晩年版画に新たな境地を見いだし、自ら刷る技術も身につけた。これもすばらしいものが多い。どちらにせよ、ぼくはこの年になって、このような画家に出会えたことを幸福に思う。吉田の絵は現在全国各地で巡回展示がされている。『吉田博作品集』(東京美術)はそのパンフレットか?これも手に入れた。残るは上田と東京。どちらかへ見に行きたいものだ。
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