エドナ・ウェブスターへの贈り物 の商品レビュー
ぼくは眺めていた 世界が苦もなく滑るように通り過ぎてゆくのを わたしの過去の秘密のすべてと、たったいまわたしは向かいあった。 しかし、この先はなにをすればいいのか。それがわからない。
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混ざり合うそれぞれの匂いに自分を沿わせ、過去の思い出をふらふらとほっつき歩くような作品だった。その匂いというのも基本甘酸っぱくて、花の蜜も果実もすぐそこにあってその種類も豊富で、でも実際は青くさい草を食んでるようで、矛盾を孕みながら分からないなりに自分も通過した懐かしいそれだった...
混ざり合うそれぞれの匂いに自分を沿わせ、過去の思い出をふらふらとほっつき歩くような作品だった。その匂いというのも基本甘酸っぱくて、花の蜜も果実もすぐそこにあってその種類も豊富で、でも実際は青くさい草を食んでるようで、矛盾を孕みながら分からないなりに自分も通過した懐かしいそれだったわけなのだけれども、時には何故かうんこの臭いまでしてくる驚き迄あり、それは汚物っていう意味ではなく排泄物としてのうんこで、汚いとか臭いとかいうよりももっとこう笑っちゃうような恥ずかしいような、やっぱりそれも懐かしいのだと思った。
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「アメリカの鱒釣り」を書く以前の未発表作品集。 それだけに出来のいいのも悪いのも混在しているけれど、リチャード・ブローティガンの切なく愛しい魅力は十分堪能できる。
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いつもの通り、すごく良い詩もあれば、すごく理解に困る詩がある。 いつもの通り、ブローディガンの言葉で書かれている。
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2005年、1984年に自殺したブローティガンの遺品の中から一人娘のアイアンシが遺品の中から発見し出版された「不運な女」の翻訳版を手にしたとき、ああ、今度こそこれがブローティガンの最後の小説になるんだ、と思ったのだった。まさかそれから5年、再び藤本和子さんの訳で、今度はブローティ...
2005年、1984年に自殺したブローティガンの遺品の中から一人娘のアイアンシが遺品の中から発見し出版された「不運な女」の翻訳版を手にしたとき、ああ、今度こそこれがブローティガンの最後の小説になるんだ、と思ったのだった。まさかそれから5年、再び藤本和子さんの訳で、今度はブローティガンの未発表作品群を手に取ることができるとは、思いもしなかった。翻訳者の藤本さんも、あとがきの中でその驚きに触れている。 詩人・作家としてまだ名をなす前のブローティガンの作品。でも、読めば確かにわかる。ああこれはブローティガンの作品だ、と。彼が当時の恋人の母、エドナ・ウェブスターに「ぼくが金持ちで有名になったら」(もし…になったら、ではなく、と藤本さんはあとがきで強調する)、これを社会保障手当に使えばいいよ、そう青年ブローティガンは言い残して故郷をあとにする。彼自身が自分の才能にそれだけの自信を持っていたとおり、この初期作品群は、若書きとかどうとかいう観点を超えて、完成されている。 そして悲しいことではあるけれど、その後彼がピストルをくわえて自殺するに至る1984年の夏への…(ブローティガンの正確な自殺日時はわからない。9月中ごろと言われている。遺体が発見されたのは10月末のことだ)…予感を随所に感じさせる作品群でもある。 ブローティガンの存命中に翻訳された、「当時の」最後の作品「ハンバーガー殺人事件」の中での、「風が吹いても消えやしない/ちりは/アメリカのちりは」(この作品は残念ながら藤本和子さんの訳ではない)というリフレインは、彼の自殺を予見させる暗さの象徴のようでもあったし、その後発見され翻訳された前述の「不運な女」もまた、(すでに彼の死を知っているという先入観を差し引いても)暗く、孤独な小説だった。 「エドナ…」に採録された作品の中で個人的にもっとも印象的だったのは「いつもいるんだ、惑わされているやつが」「実験的ドラマ三作」あたりだろうか(たまたまこの2部は続いているのだが)。ドラマの三つ目、倒れる青年の存在に気づかないかのように、キスをし「人生ってすばらしくないこと?」と言い合う恋人たち。これが、ブローティガンが詩人として名をなすという青年らしい野望の前方に、すでに見据えていた死のイメージだったのではないかと思う。 解説を江國香織さんが買いておられる。驚いたことに江國さんも私と同時期、80年代の、ブローティガンの作品がすでに手に入りづらくなっていた頃に、ブローティガンを「見つけた」と書いておられた。 今でも思い出すと悔しいのだが、当時たしか中学生だった私は、最寄駅近くの書店(この店は売れなかろうがなんだろうが返品しないので、ときどき神保町あたりの古書店では5千円ぐらいで売っているような岩波文庫の絶版本が、定価で置いてあったりするのだった)で、ブローティガンの「ソンブレロ落下す」を見つけた。でも当時、私のお財布の中身はその単行本を買うには数百円ばかり足りなかったのだ。翌月のお小遣いを入れて再びその本屋に向かったときには、もうその本は棚から消えていて、今では古書マーケットでも滅多に出回らない。でも昨今のブローティガン作品の再文庫化などの流れを見ていると、もしやまた手に取れる日がくるのかも知れないなと期待している。 江國さんは書いておられる。ブローティガンはいつになっても、その時代の若い読者に「あらたに発見される」。これは「残る」ということより、はるかに困難で偉大なことなのだ、と。私もそう思う。おそらく出版される作品としては、今度こそこの本が最後のものとなるだろう。でもこれからも彼の残した作品が、幾度も「あらたに発見される」ことを確信しているし、そう願っている。 藤本和子さんによる(藤本さんの翻訳でなければ、たぶん日本でブローティガンはここまで売れなかったと思う。この作品をまた藤本さんの翻訳で読めたことは本当に幸せだった)あとがきも秀逸。このあとがきまでを含め、トータルで五つ星の作品集。
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