倭の正体 の商品レビュー
本書は奇妙な比較言語学的手法(?)を使って、「倭とは伽耶の分国であった」ことを示そうとしたものである。 本書の特徴の一つは、極めて薄弱な根拠から結果を導く姿勢にある。例えば、『後漢書』に「楽浪郡武帝置 洛陽東北五千里」と書いてあるから楽浪郡は朝鮮半島にはなかった、などと短絡的に結...
本書は奇妙な比較言語学的手法(?)を使って、「倭とは伽耶の分国であった」ことを示そうとしたものである。 本書の特徴の一つは、極めて薄弱な根拠から結果を導く姿勢にある。例えば、『後漢書』に「楽浪郡武帝置 洛陽東北五千里」と書いてあるから楽浪郡は朝鮮半島にはなかった、などと短絡的に結論している。著者が言語学者であることを考えると、本書の歴史記述については無視したほうが無難であろう。では、専門の比較言語学を使った考察についてはどうかというと、これまた歴史記述に負けず劣らず酷いものである。ここにその例を3つほど挙げておく。 (1)スメラ-ミコト スメラ-ミコトはドラヴィダ語のcemmal(神・王)-mi(天・高位)-kodaku(子)に対応する。加羅語はドラヴィダ語と同系であるから、このことは、倭国の王権の出自が駕洛国であったことを証明するものである。 (2)任那と奴国 任那の韓語音はnim-naであり、日本語のmima-naはその変化形。nimはドラヴィダ語のnerrim(主)に対応し、naはマンシュウ語のna(地)に対応する。よって、nimnaは宗主国の意。一方、九州にあった倭奴国や狗奴国の「奴」はカヤと読むべき訓読語で、ドラヴィダ語のkayam(奴隷)から来た語である。従って、朝鮮半島にあった任那が宗主国で、筑紫倭や大和倭はその分国であった。 (3)雄略天皇 オホ-ハツ-セ-ワカ-タケノ-ミコトはドラヴィダ語で「kaya(大きい)-paca(青い)-ceri(都)-maka(若い年)-takku(攻撃)のミコト」となり、意味は「伽耶の金首露王都の若くて攻撃的な天子」となる。駕洛国の第七代の王は金喜王(別名:吹希王)であるが、金=吹=kacu(金)、喜=希=kittu(攻撃)なので、雄略天皇は金喜王の成り代わりである。 本書には、以上のような対応関係がなぜ成り立つのかという説明はない。従って、方言を含む様々なドラヴィダ語の単語の中から恣意的に単語を選びゴロ合わせした、という感を拭えない。説得力に乏しく、学問的価値はゼロに等しいであろう。これでれっきとした比較言語学者というのだから驚くほかない。
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