サドは有罪か の商品レビュー
結論からいうならサド的見地においては、実存としての個々人の対峙は認めるが、本来、媒介することができないはずの別々の個人に対し普遍的法律の上で、虚偽に休らいでいる裁判官には裁けるはずがない、ということであろうか。また、本書の原題は、「サドは焚刑に処すべきか」とのことだが、実存の争い...
結論からいうならサド的見地においては、実存としての個々人の対峙は認めるが、本来、媒介することができないはずの別々の個人に対し普遍的法律の上で、虚偽に休らいでいる裁判官には裁けるはずがない、ということであろうか。また、本書の原題は、「サドは焚刑に処すべきか」とのことだが、実存の争いからの逃避である抽象化と疎外化にも人間の真実の権利恢復を要求し、犠牲を強いる可能性もある善ではなく、罪悪にも美徳を見出した文学的価値についても評価されている。 シモーヌ・ド・ボーヴォワールによるマルキ・ド・サドとサド文学についての評論で、実存主義の立場からのサド評価が興味深かった。自らの嗜好性の故に社会から隔離された状況で、サド実存からの逆襲と挑戦を、その文学からするどく再現する。 現代にサディズムの語源として名を残すことになったサドだが、サド自身は自分は変わりようがないとしながらも、世の中から忘れ去られることを願ったという。 サドの生い立ちからその行方を記した上で、彼の嗜好性とその精神構造をサド文学を通して丹念に辿る。その分析はここで書くには卑猥で憚られるのだが(笑)、サドのSとしての性嗜好分析と、SとMの関係性の論理は今日において一般的な理解であるといえるだろう。自然を凌辱するという最大の罪悪の可能性を考えることで自然を相対化し、悪徳に価値を見出したサド文学は、今日に至ってもなお、われわれを不安にさせるというその企みをよく果たしているのではないか。
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