渋谷 の商品レビュー
なんでもいいから認められたい。 ダメな子はダメな子を必死に演じて 、良い子は良い子を必死に演じて子どもは生きている。
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渋谷は、よく通る駅でも、買い物に行く街でもあるけれど、その裏側にはいろいろな物語がありそうだ。 ”アダルトチルドレン”をわかるのには具体的にわかりやすい本。 「風俗するような娘はうちにはいないわ」と思いあがっている世の中の母親たちへ、なんらかの気づきになるかも。
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著者が出会ったいまどきの渋谷に集まるような少女たちの身の上話。典型的なアダルトチルドレン的物語が展開される。「乳の海」でも読み説いた母子関係にふたたび「娘と母親」の側面から接近する。紫にけむる渋谷のポートレイト収録。
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この本に登場する人物は多くない。主に3人の少女と、写真家藤原新也さんとの交流にスポットが当てられており、それ以外の人物や事象については、たぶん意識的にであろう、あえて脇役の役をあてがえられている。3名の少女にスポットを当てた新也さんの想い入れは相当なものだったろうと推察されるので...
この本に登場する人物は多くない。主に3人の少女と、写真家藤原新也さんとの交流にスポットが当てられており、それ以外の人物や事象については、たぶん意識的にであろう、あえて脇役の役をあてがえられている。3名の少女にスポットを当てた新也さんの想い入れは相当なものだったろうと推察されるのである。 おいらがルポライターとして、渋谷あるいは青山、六本木、原宿、等々の街中に行き交う少女たちを取材・執筆していたのは、かれこれ20年近くの時を隔てたときであった。当時の少女たちはと云えば、軽々しく高校中退を語って自らを主張していたり、あるいはメディアにはびこる軽薄な語彙を身にまとっては、自らをアピールしていた。そんな現象をおいらは「メディアキッズ」と称しながらの、取材体験が続いていたのだ。 「高校生の崩壊」(双葉社)という1冊にまとめたそのドキュメントは、教育の現場における「崩壊」をテーマとしていた初めての書籍である。その嚆矢となるべき1冊であった。良い意味での軽さ、織田作之助流のいわゆる軽佻浮薄さを、おいらは好意的に受け止めて、レポートを書いていたという記憶を持っている。だが確実に、「渋谷」の登場人物たちは変貌を遂げたのだろう。藤原さんでなければ決して表現・証言し得なかったであろうやり取りを目にする度に、渋谷は大変な事態に突入しているであろうことを想うのである。
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写真家であり文学者、藤原 新也さんのノンフィクション文庫本。 アジア、インド、アメリカ…、さまざまな土地を旅した藤原さんがもっとも落ち着く場所、それは渋谷。 少女たちとの関りはどんな体験をさせるものなのでしょうか。
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若いときは渋谷に行きたがる。学校サボって渋谷に行った。何をするわけでもなくただウロウロとする。それがカッコイイんだ。わるそーなヤツがゴロゴロいてなんか弾けててカッコイイ。スクランブルに紛れて何か自分というものが誤魔化せる気もした。そんな時代は誰にでもあったはずだ。思春期だ。大人に...
若いときは渋谷に行きたがる。学校サボって渋谷に行った。何をするわけでもなくただウロウロとする。それがカッコイイんだ。わるそーなヤツがゴロゴロいてなんか弾けててカッコイイ。スクランブルに紛れて何か自分というものが誤魔化せる気もした。そんな時代は誰にでもあったはずだ。思春期だ。大人になりたい。子供でいたい。そういうアンバランスさは渋谷の求心力にすぐひっかかる。それから浮遊する。何かに気づくまで。「ダメな子も社会のダメな子像に自分を当てはめようと必死なんです。それは最低でも無視されず、そういう姿でこの社会に存在できるということなんだと思います。」無理に当てはめることもないしカテゴライズする必要もないような気もするけれどな。無視する方もよくないな。カノジョたちはとにかく本気で自分の話に耳を傾けてほしいんだ。浮遊している理由がちゃんとわかるまで。無自覚のままココにたどり着いちゃったわけだから。自分のことそんな風に考えたことなかった。そんな自分に気づくことがなかったというのが思春期も終わりにさしかかる頃ようやく気づくことで。それまで思春期っていうのは継続的に浮遊しているんだ。わかりやすい一文があった。「格好やものの言い方が派手な子というのは、割と底が割れている子多いんだよね。」
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1944年生まれというから、藤原新也は私よりも随分と年上になる。この本からも伺えるけれども、しかし、好奇心のあり方とか行動力とか、あるいは感性そのものをとってみても、非常な若々しさを感じる。
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