トーク・トーク カニグズバーグ講演集 の商品レビュー
ポリティカルコレクトネスなど傾聴に値する箇所が多い。 ただ、テレビとインターネットに関する嫌悪は、本を愛する余りだと思うが、行き過ぎだと思う。若い世代が受け入れ、使いこなしている文化を一蹴する権利は誰にも無いはずだ。
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ニューベリー賞受賞スピーチを初めと終わりに配した講演集。 明晰かつ聡明な著者の語りだけあって、むずかしい~。 それでも「おお」と思う箇所が多々あっておもしろかった。 訳者も指摘しているように、おどろくほど自分のことを語っていないのも興味深い。自分の経験に重ねすぎてしまうと、作品...
ニューベリー賞受賞スピーチを初めと終わりに配した講演集。 明晰かつ聡明な著者の語りだけあって、むずかしい~。 それでも「おお」と思う箇所が多々あっておもしろかった。 訳者も指摘しているように、おどろくほど自分のことを語っていないのも興味深い。自分の経験に重ねすぎてしまうと、作品の範囲がせばめられてしまうから、そういう語り方はさけたんだろうなあ。
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カニグズバーグは児童文学者。代表作の一つ『クローディアの秘密』は岩波少年文庫にも収められている現代児童文学の傑作である。児童文学と聞くと、何だ子ども向けかと思う向きもあるかも知れないが、それはとんだ心得ちがい。近頃の児童文学の中には、大人が読んでも面白い作品は少なくない。カニグズ...
カニグズバーグは児童文学者。代表作の一つ『クローディアの秘密』は岩波少年文庫にも収められている現代児童文学の傑作である。児童文学と聞くと、何だ子ども向けかと思う向きもあるかも知れないが、それはとんだ心得ちがい。近頃の児童文学の中には、大人が読んでも面白い作品は少なくない。カニグズバーグの作品もその一つ。そのカニグズバーグ女史の講演は、アメリカの出版事情や世相をやんわりと批判しながら様々な資料を渉猟しつつ自作の由来について語るといった体のものだが、実に興味深い読み物となっている。 時代順に納められた九つの「講演と講演の間には講演とそれが話された時代を、あるいは講演と講演をつなぐ文章」が入っている。この講演とそれをつなぐ文章の配置が実に上手く、一つの講演が終わると次の講演が聴きたくなる。そんなこんなで一気に読み終わってしまった。どれも面白いのだが、その中でも、なぜ子どもの本を書くのかということについて触れた1970年代の講演「“わが家”に帰る」を紹介したい。 「私は書くときはいつも、“わが家”へ、原点を示している子ども時代に、帰っていこうと努めています。それは私が子どもの本の作家だからというだけでなく、人の子ども時代には、嘘偽りのない真摯な何かがあるからです。嘘偽りがないこと、真摯であることは何を書くときにもまずスタートにおくべきものでしょう。」 しかし、中年になると“わが家”に帰る邪魔をするものが増える。あごに髭が生えてきた今、子ども時代の漠とした不安に具体的な言葉を与えられるのかという疑問。他にもある。かさぶたを引っぺがして既に過去となった傷を見ることへのおそれ。あるいは、自分の過去に本当に書くべき価値があるのかという問い。畢竟作家にとってのわが家に帰るとは「自身をめぐる真実、毛のない、むきだしのおそろしい真実が存在するところ」について語ることだとカニグズバーグは言う。 作家にとってばかりでなく読者にとって“わが家”に帰る道もある。「この本、この章、この人物、ああ、みんなよくわかる、ほんとによくわかるわ」と言える本を持つことである。若い頃の著者にとってサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』がそうであった。その前には『若草物語』が。しかし、その前にはない。「私は子どもの時、これぞわが家と感じ、このヒロインは自分だと思える本に出会えませんでした。」そういう本に出会いたいと思いながら出会えなかったことが、著者をして「子どもたちが自分たちのことを書いた本」だと思えるような本を書かせているのである。 講演集を読み終わった読者はすぐに未読の著作を買い求めに本屋に走りたくなるかもしれない。因みにカニグズバーグ作品集は岩波書店から出ているが、著者の語るアメリカでも日本でも出版事情は変わらない。子どもの本も、今ではビジネスであるのは『ハリー・ポッター』の売り方を見ても分かる。ブームのおかげで、二匹目の泥鰌をねらったファンタジー物は次々と出版されているが、思春期の子どもの行動や心理をリアルに追いながら読み物として面白いというカニグズバーグの書くような物は、訳者でもある批評家の清水真砂子や同じ児童文学作家である上野瞭、今江祥智など所謂玄人受けはしても、本屋の棚にいつもある本ではない。図書館の児童文学コーナー辺りには揃っているかも知れない。是非探してみることをお勧めする。
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