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徽州商人と明清中国 の商品レビュー

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2023/09/18
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中国の商圏は主要河川流域ごとに大きく10の大地域(満洲、華北、西北、長江下流、贛-長江、長江中流、長江上流、東南沿海、嶺南、雲貴)に分かれていた。有力商人を産んだのは、耕地面積の割に人口が多く、交通の要衝に位置する地域だった。山西・陝西商人と徽州商人と寧波・福建・広東商人である。 明清時代の両巨頭は山陝と徽州であり、いずれも塩商人として台頭した。山陝商人は陸路交易に強く開中法による辺境への軍糧納入によって栄え、徽州商人は河川や運河の水運に強く両淮塩と長江流域の生活必需品によって栄え、寧波・福建・広東商人は海上貿易に強く海外貿易と南洋・北洋海運で栄えた。 徽州盆地は、明清時代の基幹商業ルートである、①江南-長江-四川②江南-大運河-北京③江南-江西-広東へのアクセスが良かった。開中法が実物納ではなく銀納でよくなる制度変更により、塩産地に近い徽州商人が有利になる。徽州商人はさらに、漢口を拠点に塩・穀物・生糸・絹・綿布・茶・木材などの大量消費商品や高利貸しで利益を上げる。人口増が続く江南デルタでは農民が家内手工業で家計を補充することが必須で、安価な労働力の供給元となっていたため、徽州商人は手工業生産に積極的に関わる動機がなく、産業革命発生の土壌は形成されなかった。 やがて、アヘン貿易により銀が国外流出すると人民払いの銅銭と政府納の銀の差益で儲けていた徽州商人は打撃を受け、塩の専売が中小商人でも行えるようになり、綿布も長江上中流での生産が発達しアヘン戦争の結果の開港でインド産品が流入してくる。更に太平天国の乱で長江沿岸や江南デルタが荒廃することにより徽州商人は衰退していくことになる。 代わって、開港した上海を拠点とする寧波・紹興商人が海上貿易で台頭し、主導権を握っていく。中国商人の両横綱は徽州・山西から、寧波・広東へと代わっていったが、徽州商人は徽州の茶・木材と江南の生糸・絹を扱う長江下流の地域的商人として命脈を保った。山陝商人も隆慶和議後はモンゴルと、清朝後はロシアとの貿易を独占し、山西票号の金融業でも栄えたが、ロシアの内地直接貿易や清朝崩壊後の近代銀行発達により衰退していく。

Posted byブクログ