東京Y字路 の商品レビュー
カメラというツールを使い、日常の風景から非日常を括りだす。 ぼくにとっては、それは街で、自分だけの四葉のクローバーを探す行為にちかいように思う。
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「僕は天使ぢゃないよ」の1シーンがyoutubeにupされていた。 横尾忠則、桃井かおり、緑魔子、大瀧詠一、あがた森魚が一所の シーンで、あたりまえだがみんな若いのに驚く。
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捲れども捲れども、写されているのは東京都内で撮られたY字路である。これだけの量のY字路を見せつけられると、今まで何とも思わなかったY字路の存在を意識せざるを得なくなりそうだ。Y字路は危険である。どういう訳か、世界を征服した気がしてくるのだ。Yの下方にいる者は、左上にいる者も右上に...
捲れども捲れども、写されているのは東京都内で撮られたY字路である。これだけの量のY字路を見せつけられると、今まで何とも思わなかったY字路の存在を意識せざるを得なくなりそうだ。Y字路は危険である。どういう訳か、世界を征服した気がしてくるのだ。Yの下方にいる者は、左上にいる者も右上にいる者も掌握出来てしまう。全てが我が臣下であり、彼らの運命も手中にあると思うと高笑いしたくなってしまった。だから気分が鬱々としている時にはY字の下方に立とうと思う。そして高笑いして左にも右にも進まずに、その立ち位置を堪能するのだ。
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1ページずつ 真剣に写真集をみたの ひさしぶりかも いっぺんにみると ちょっと疲れる 繰り返し たまにみたい
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書 を 捨 て よ 路 上 に 出 よ 横尾氏が魅せる、気の狂うほど正確な遠近法。分岐点より二つに分かれ伸びていく道路は、まるで横たわった人間が頭を起こして眺めたときに見える、己の二本の脚のようである。様々なボディたちはときどき片方のひざを曲げてみたり、脚を少し高く立て...
書 を 捨 て よ 路 上 に 出 よ 横尾氏が魅せる、気の狂うほど正確な遠近法。分岐点より二つに分かれ伸びていく道路は、まるで横たわった人間が頭を起こして眺めたときに見える、己の二本の脚のようである。様々なボディたちはときどき片方のひざを曲げてみたり、脚を少し高く立てたりして、都市の一部に化けてじっとしている。 路上には人をとらえて離さないような、抗いがたい魅力がある。日本における赤瀬川原平のトマソンのプロジェクトから、今日のダム、ジャンクションの写真集の登場、あるいは団地マニアから「ブラタモリ」(NHK)の視聴率好調という現象にいたるまで、「路上」周辺への視線は、ときには伏流となりながらも、確実に綿々とした歴史を刻み続けてきた。横尾氏自身もあとがきで記しているように、人を排除したあとのY字路は虚構の舞台へと変身する。「分かれ道」という比喩にふさわしいのは具体性を取り除かれた、観念的な風景としてのY字路である。しかし路上観察の大きな趣のひとつとしての具体性は彼が考えた以上に重要な要素であり、この写真集もまたこの要素によって我々のよりリアルな感覚に訴えかけるものを備えているといえる。人が建築物に手を加えた修復のあとや草花の伸び具合にもデータが凝縮されているのである。 ところで、道路を自身の肢体として同化してみるならば、分岐点にそびえたつ建造物は言うまでもなく、圧倒的なリアリティをもって我々の体に突きつけられたエロスである。「正確な」遠近法により鋭さを増した三角ビルの先端、民家をざらついた外壁、花壇のへりの攻撃的な角!Y字路を目の前にした鑑賞者は、わが身が異物によって侵されてしまうのではないかという、身体的な不安を感じてひそかに身震いする。そしてそれこそが我々にとって最大の快楽である。このひそかな悦びに、おそらく横尾氏自身も気がついているはずである。かつて寺山修司がアジテーションのごとく世に言い放った言葉を、この写真集の虜となった私の言葉として発するとしたら、この溢れる身体性を求め我々は今、書を捨てて路上に出るべきである。そうすれば我々は路上には文学の本と同じくらい、あるいはそれ以上に文学的なものがたくさん転がっていることに気づくだろう。そしてそのことを改めて喚起してくれたこの一冊もまた、写真集でありながら「読まれる」べき文学である。
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