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禅の子育て の商品レビュー

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2017/08/07
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図書館でふと目に止まって借りる。幼稚園の園長でもあるお坊さんが、幼稚園の生活を取り上げたエッセイ。私が行っていたのもお寺に併設された幼稚園だったことを懐かしく思い出した。ある種若い母親や家庭の育児や出産に対して偏った見方もしているような書き方だったけれど、こういう見方をする人もいるのね、とフムフムと読む。ヤギの飼育のことなど、聖人君子の言葉ではなく、時折人間臭さも見られて、こんな感じ方もあるのだなと。合間に入れられる奥様の詩が温かくて素敵。読書半ばで返却してしまったので、試験が終わったらまた借りて読了しよう。2017/3/24 読み途中だったので、図書館で再度借りた。こんな保育園、いいなぁ。山ごぼう(p117)って初めて知った。中が空洞になった枝で望遠鏡遊び、パチンコ、インクベリーど呼ばれる水溶性の濃紫色の液が出る実。なんとも楽しそう。子どもが楽しく遊べそうだというもの、情操教育に良いと思うものを、お世話を厭わずどんどん取り入れる奥様の姿勢が素敵。 p121「気になることば」の章も印象に残った。 以下引用…… 「園長先生、ぼくは逆あがりができるようになったんで。 みせてあげようか」「私は、洋服のボタンをきちんととめられるんで、とめて みせたげようか」万事この調子である。本当は、未熟な自分がきちんとやれるようになったことを大人に確認してもらわなければならない立場なのに、ことばの上では、自分をあくまで中心的存在に置き、相手の大人を対等か、あるいはそれ以下の立場にみなしている。(中略)原因はもちろんはっきりしている。親が、客観的に子どもの発達を見すえる目を失って、自分中心に子どもを見ているからなのである。つまり、子どもの成長発達によって自己満足したい親が大人なったのである。「どれどれ、洋服のボタンきちんととめられるかどうか、お母さんにちょっと やってみせて」(中略)ボタンをかけたりするのは、何も親のためではあるまい。子ども自身が成長発達していくのは、他ならぬ子ども自身のためなのである。してみれば、ことばをかけるときにも、親はあくまでもその発達を温かく見守ってやるという立場をはっきりさせておかなければなるまい。「逆あがりができるようになったの。そう。では、お母さんがちょっと 見てあげよう」「ボタンきちんととめられるかな。ちょっとやってごらん。お母さんが 見てあげるから」という言い方が本当だろう。何でもないことのようだけれど、子どもへの大人の関わり方の基本として、とても大切なことだと思われる。「ちょっとお母さんにしてみせて」という言い方で子どもに関わっている親は、少し大きくなって学校から持ち帰った成績表が芳(カンバ)しくないと、「頼むからおまえ、もう少し勉強してくれ」などと馬鹿げたことを言うようになるのである。勉強を怠けて苦労するのは、本人のはずであって、何も親は頼んでまで勉強してもらう必要はないのである。 ……引用ここまで →娘にできることが増えるとつい、「みせて」と言ったり、夫が帰ってくると、「みせてあげたら?」と言ったりしてる。ハッとした。なるほどそんな捉え方もあるなと。時と場合によるだろうけど、意識して、「みてあげよう」「みてもらったら?」と言い換えるようにしたい。 2017/8/6

Posted byブクログ