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チェチェン 廃墟に生きる戦争孤児たち の商品レビュー

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2010/10/10

 ジャーナリストのルポとしてはかなりの評価が与えられると思う。ある種、小説的な要素を感じさせるのは、ジャーナリズムにおけるある種のメッセージの強調とデフォルメによる側面もあるが、もう一方でチェチェン紛争という問題の異様さと史上最も甚大な文民被害を出したと言われる側面から引き出され...

 ジャーナリストのルポとしてはかなりの評価が与えられると思う。ある種、小説的な要素を感じさせるのは、ジャーナリズムにおけるある種のメッセージの強調とデフォルメによる側面もあるが、もう一方でチェチェン紛争という問題の異様さと史上最も甚大な文民被害を出したと言われる側面から引き出されている雰囲気とも言え、これを単純に誇張として受け流す事は出来ないようにも思う。  ここで見るいくつかのストーリーは、その個別的評価は当然別としてーーそもそもルポの対象となった個別的な取材対象に評価を下すという学者然とした態度が本書のような書物に有効かという問題もあるしーー、それらが強く訴えかけて来る言葉にならない強烈なメッセージは今でも記憶に残っている。  チェチェン紛争を扱う場合、実は殆ど、勧善懲悪や善悪二元論が通用しない事が多い。紛争が対立した主体間の分割出来ない価値を巡る武力衝突だと定義する場合、多くの紛争は、当然、勧善懲悪や善悪二元論は適用出来ない。しかし、それ以上に多くのステレオタイプが広く国際世論に出回り、その事によって簡単な図式で一方が悪で、他方が善と表象される事もまた多い。旧ユーゴやアフリカの紛争も見方によってはこうした議論が広く見られると言えようーー旧ユーゴ紛争におけるセルビア悪玉論、これに対する学術界も含めたセルビア擁護論のように。  しかし、チェチェン紛争の場合、確かにそうした傾向は、巨視的に見ればありーーロシアが悪で、チェチェンは善、あるいは後者は善ではなくともロシアが悪いーー、且つ紛争の経緯を見ると圧倒的軍事力を有するロシア側の行動に倫理的、規範的規制が伴っていなかったという明らかな事実も存在し、この側面はある意味では否定出来ないものでありながらも、他方で第二次紛争以後のチェチェンを見ればテロ行為を通してロシアと対峙する故バサーエフやその路線を支持して来たウマーロフ元「コーカサス首長国」軍事司令官等という加害者としてのチェチェン人ーーこの場合は、非チェチェン人(テロの犠牲者、多くの場合ロシア人)に対しての加害者という側面だけではなく、テロの報復措置として多くのチェチェン人がロシア軍の作戦で犠牲になるという意味ではチェチェン人自身に対する加害者としての側面もある。さらに、カドィロフ政権のようにチェチェン人市民に対する加害者、抑圧者としてのチェチェン人が現在では存在しているという二重三重の構造があるわけである。  このような状況では、勧善懲悪や善悪二元論は適用出来ず、ジャーナリズムも、ある種混沌とし、もがき苦しむ人々の実像を取り上げるというリアリズムからのアプローチしか用いれない、あるいはそれが最善のアプローチとして用いられるようにも思う。同時に人々も、現状の責任に帰する事で完結出来ないそれぞれの課題や恥ーー多くの場合、生き抜く為に仕方なかったかもしれないが、それでも人には大きな声では言えない自らの恥部のようなものーーを抱えている。こうした混沌とする現状を筆者自身がもがき苦しみ、また読者もそこに引きずり込み、「しかしこれが(私が見た)現実なのです」と語るセイエルスタッドの試みは、私自身は評価出来ると思う。

Posted byブクログ