ポスターを盗んでください+3 の商品レビュー
原さんが私と同じぐらいの年齢だった頃の文章。 デザインだけじゃなくて文才もあるなんて。 もっと頑張ろう、という気持ちになる。
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新聞で連載されていた文章と言うだけあって、小気味良いテンポで読める短編随筆集である。 日々触れるものに対して、疑問を見出したり、その背景に想いを馳せたりする視点は、デザインをする上で必要不可欠である。 普段からささやかな気付きがあるからこそ、細やかな配慮のある気の利いた作品を...
新聞で連載されていた文章と言うだけあって、小気味良いテンポで読める短編随筆集である。 日々触れるものに対して、疑問を見出したり、その背景に想いを馳せたりする視点は、デザインをする上で必要不可欠である。 普段からささやかな気付きがあるからこそ、細やかな配慮のある気の利いた作品を生み出すことができる。 こういった地に足つけた視点は、何もデザインの仕事の中でしか養えない訳ではなく、普段から見るもの、触れるものから得られるはずだ。 デザイン的視点を持って、その作者の気持ちになって、ものづくりとは何かをじっくり考える機会を日頃から大切にしたい。
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書かれたその時々に著者が取り組んでいた仕事についてのあれこれを書いているエッセイ。 ちゃんとオチがついているから楽しく読めます。 →http://ameblo.jp/sunnyday-tomorrow/entry-11948910239.html
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美しく、小気味よい文章。こういう文章を読むと、気分もリズミカルになる。 JRの切符の下地の話とか、香港でのデザイン審査の話とかも面白かったけれど、一番印象的なのは、ウイスキーの瓶のデザインの話。デザイナーとしての理想をいうために、製造プロセス上の人々からの反発とか消極性を乗り越え...
美しく、小気味よい文章。こういう文章を読むと、気分もリズミカルになる。 JRの切符の下地の話とか、香港でのデザイン審査の話とかも面白かったけれど、一番印象的なのは、ウイスキーの瓶のデザインの話。デザイナーとしての理想をいうために、製造プロセス上の人々からの反発とか消極性を乗り越えていく内容。 また、ロスの高名なデザイナーとの調整に当たって、ビッグネームに変に気負って多くを"つめて"しまった結果の失敗、という話も示唆深い。 「率直に本人に接するべきだった」「そしてもう少し気楽に、描いてもらいたい絵について語り合う時間を持てば良かった」と後悔。この「まず会う」という発想・視点は、仕事のやり方にもブレークスルーを与えうるのではないか、と思った。 とにかく読んでいると、はっとさせられる瞬間が多かった。 そんな原研哉、「ランニングハイ」と題して、日課として走ることの喜び、レースに出ることの楽しさを語っている。原に言わせれば、物をつくるのに必要な能力とは、 「一に体力、二に体力、三、四は自由に埋めてよろしいが、五は負けず嫌いな性格。才能とはこの五つを、別の角度から見た呼称にすぎない」という。
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第一線でモノをつくる人の思考をのぞき見るのはたいへん楽しい。エッセイだし、ほんのさわりの部分でしかないのだけれど。 著者自身が書くに足らないと判断した、日々の仕事の中で無意識化された習慣にも、きっと創造のヒントがあるのだろうなぁ、などと思って想像を広げるのもワクワクする。
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工業デザインやグラフィックデザインなどを手がける著者によるエッセイ。デザインに対する真摯な取り組みが文章から伝わってきてとても興味深い。10年以上前に雑誌連載されたコラムをまとめたものだが、まったく古さは感じない。インスタントコーヒーのラベルデザインの話や、ウィスキーの瓶のデザイ...
工業デザインやグラフィックデザインなどを手がける著者によるエッセイ。デザインに対する真摯な取り組みが文章から伝わってきてとても興味深い。10年以上前に雑誌連載されたコラムをまとめたものだが、まったく古さは感じない。インスタントコーヒーのラベルデザインの話や、ウィスキーの瓶のデザインの話などは、店で手にとって確認したくなった。
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グラフィック・デザイナーとして名高い著者の幻のエッセイ集のリニューアル復刻版。原本は「ポスターを盗んでください」(新潮社、1995年)だが、それに新しいまえがきとあとがき、さらにエッセイ3編を加えたもの。いかにデザインに興味がない人でも、この著者がデザインしたものを目にしたことの...
グラフィック・デザイナーとして名高い著者の幻のエッセイ集のリニューアル復刻版。原本は「ポスターを盗んでください」(新潮社、1995年)だが、それに新しいまえがきとあとがき、さらにエッセイ3編を加えたもの。いかにデザインに興味がない人でも、この著者がデザインしたものを目にしたことのない人はいないはず。たとえばJRの切符を始め、無印良品の品物、ウイスキーのボトルにインスタント・コーヒーのビンなどなど。 さて、若くして成功を収めたデザイナーが、モノ書きの才能を発揮できたわけは、この本のまえがきに詳しい。岡山の高校時代からの悪友で作家の原田宗典の紹介によるものとのこと。収録されている50編のエッセイは、「それを創りながら。」と題され、「小説新潮」に5年にわたり連載されたものだ。 15年以上の年月を経て読み返せば、内容的にはいささか古臭さを感じさせるものもあるけれど、デザインの本質を突く言葉は、勢いのある当時のままに通用するようだ。
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タイトルがすごくすきだなぁ。 各章ごとの題名もすごく詩的できれい。 内容ももちろん楽しいのだけど。
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・駆け出しのデザイナーは、デザイン料はいらないから 自分の自由になる仕事が欲しいと思う時期が必ずある。 これはデザイナーの麻疹だ。 ・ビッグ・ネームに気負うのではなく、まず本人に会って 企画について話し合うべきだった。 ・「これ、というモデルはいつも急に現れ、迷いの余地...
・駆け出しのデザイナーは、デザイン料はいらないから 自分の自由になる仕事が欲しいと思う時期が必ずある。 これはデザイナーの麻疹だ。 ・ビッグ・ネームに気負うのではなく、まず本人に会って 企画について話し合うべきだった。 ・「これ、というモデルはいつも急に現れ、迷いの余地がないほど抜きんでている。 それを待つのはほとんど「雨乞い」の心境に近い。」 ・「しかし裏方に徹していたとはいえ、ポスターが盗まれたと言われれば嬉しい。 だからもし、持って帰りたくなるようなポスターを街で見掛けたら、 躊躇せず盗んでいただきたいのである。」 ・デザインの目的がはっきりと決まっている仕事は気が楽だが、 どんな表現でも許される仕事は、納得がいくまで仕事が終わらない。 切符、ウイスキーの瓶とラベル、ワコールのカレンダー、劇団のパンフレット、 本の装丁、手漉紙展覧会の企画と展示、百貨店のサマーギフト・キャンペーン、 伊勢丹美術館のポスター、某クルマメーカーの新聞広告、 ホテルのレターヘッド・コレクションの企画、米袋、コーヒーのパッケージ、 箱の展覧会、紙、うどん、山陰の観光キャンペーン、マカロニ。 装丁:原研哉 1990~1995年に手がけた仕事や日常の出来事を綴ったエッセイ集。 デザインの仕事をしていると毎日の生活の目が変わってくるようで、 食パンの断面にまでデザイン性を感じるようになるとは感服いたしました。 リ・デザインが面白いです。 デザインの対象になりにくかった卑近なもののデザインをやり直す試み。 米袋なんてお米が入って丈夫なら改良の余地はないと思ってしまいますが、 スコッチをモデルに産地を売り出したラベルを作ったり、 一合単位で小袋に分けてアウトドア用にしたり、 ギフト用に和紙のようないい紙で包んだりと まだまだ考える余地はあるようで。 そう思うと当たり前だと思われているものの形や様式って 誰が考えてどういう経緯で定着したのか気になります。
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p242 褒められる立場 (中略) 従って今回のように正面切って文章で褒められるというのは嬉しい反面、なんだか非常に居心地が悪い。誤解のないように付け加えておきたいが、これは決して一般的な「照れ」ではない。それは実に見事な褒め方であった。さすがに作家。巧みなレトリックを使って実に...
p242 褒められる立場 (中略) 従って今回のように正面切って文章で褒められるというのは嬉しい反面、なんだか非常に居心地が悪い。誤解のないように付け加えておきたいが、これは決して一般的な「照れ」ではない。それは実に見事な褒め方であった。さすがに作家。巧みなレトリックを使って実に嫌味なく清々しく褒めてある。泣かせ所も完璧だ。しかし手際よく完璧かつ清々しく褒められる立場というのは実に冷や汗の出るものである。勢いよくおしっこを飛ばしている最中にいきなり脇にいた友人が、「さすが、原研哉のおしっこは、角度といい飛距離といい、その切れ味といい、実にゲイジュツ的であります。そのイキオイには同じ放出仲間として焦りすら感じるほどです」などと褒めはじめたらどうだろう。個展を開いてしまった僕はおしっこを止めるわけにはいかない。「褒め」を背中に浴びながらにこやかに最後まで演じ切らなくてはいけないのだ。さらに、これは以前より薄々感じていたことがが、誰かが鮮やかな手際で褒められた場合、褒められた側よりも褒める側のほうが立派に見える。褒める側の余裕、褒めるべき内容を巧みに掘り起こす優れた着眼、そして何よりも他者を立てるために一歩退いたそのスタンスがおのずと褒める側の人格を高めて見せるのだろう。(中略)「いやあ、実にアリガタイ文章だったよ。忙しい時間を割いて貰ってホント、申し訳ない。しかしさあ、これ読むと、褒められてるオレよりもお前のほうが立派に見えない?」友人は暫く絶句して、「お前らしい言い分だなあ。しかし褒められた本人がぬけぬけとそれを言うか」と怒る。まあ、怒るのも無理はない。確かに自分の解説文を書いて貰っておいて、そういう不躾な感想を漏らすというのは、いかに友人といえども失礼かもしれない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 家出空間 仏道式イエデ4コマ 第六百十六回 「部下を褒めて育てましょう」「子供を褒めて育てましょう」というメッセージが猛威を振るっている昨今。 褒めて相手を自分の思い通り洗脳すべく、褒めたくもないのにムリヤリ褒めるところを探し・・・ッ、褒め合いつつ心を矛盾させている、というグロテスクな風景がちらほら見られるのではないでしょうか。 それはともかく、ところで褒めるとはどういうことか。ホメ言葉を翻訳すると次のようになりましょう。「汝は素晴らしい、もっと同じことを繰り返して私を喜ばせなさい。そのかぎりにおいて、汝を承認してあげよう。ただし、もし失敗したときはどうなるかわかってるのだろうな、コラッ」。 すなわち、褒められた側が無意識的に感じてしまうのは、褒めてもらえたことについて成功し続けない限り、承認してもらえないのだろうな、という「慢」のプレッシャーであります。 ただしその苦痛は、あまり表面化しません。なぜなら、誰しも元々なにかしらの「自信のなさ」に苦を感じていて、ホメ言葉によってその苦が一瞬消えることに快楽を錯覚するがゆえに、その背景でプレッシャーを感じて苦しんでいることには気づけないことでしょう。 そしてこれは、ただのプレッシャーというものには留まらないないようにも思われます。根本的には「汝を承認してやろう、ただし汝がこちらの思い通りに動いてくれる限りにおいて」という欲望の洗脳メッセージである以上、それは承認のメッセージのようにみえて実際は「汝がワタクシの思い通りに動いてくれない部分は、拒絶するよ」、というひそかな脅迫の暗号でもあるのですから。承認とみせかけて、部分否定の暗号。 そのうえ、もうひとひねり付け加えましょう。このような暗号を投げかけられたとき、人はとても抵抗しづらいということ。表面的に承認され肯定してもらえているように見え・・・ッ、表面的には善意に見えるがゆえに・・・ッ、抵抗できずに喜んで、もっと褒められるように相手にあわせようとしてしまう。 それですべて丸くおさまるかと申せば、ぶっぶー、ハズレ。無意識的領域では「思い通りに動かないなら拒絶するよって言われたよー、うわーん」と嘆きつつ、「本当は相手になんて合わせたくないのに、本当はこんなことしたくないはずなのに」と知らず知らずのうちに逆恨みする怒りの業が蓄積いたします。 単に怒られて拒絶されるだけなら、それに対して抵抗することもしやすいのでまだマシなのですけれども、偽善的欲望のオブラートにくるまれていることによって、お互いが屈折してしまう。そういう次第ですから、ホメて甘やかすよりは、ポイントを定めて穏やかに叱るほうが遥かに「マシ」な教育方法だということが知られましょう。
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