ジュールさんとの白い一日 の商品レビュー
『「はい、あなた、」アリスは小声で声を掛けた。「こうでもしないと、あまりにも寒すぎますからね」皮ふの下の、硬くなった静脈がありありとみえた青白い手が隠れてしまったので、夫はまるでほんのちょっとだけ死んだかのようだった』 静かな一日。短くて長い冬の日。日常に溶け込んでしまいそう...
『「はい、あなた、」アリスは小声で声を掛けた。「こうでもしないと、あまりにも寒すぎますからね」皮ふの下の、硬くなった静脈がありありとみえた青白い手が隠れてしまったので、夫はまるでほんのちょっとだけ死んだかのようだった』 静かな一日。短くて長い冬の日。日常に溶け込んでしまいそうになる非日常。穏やかな死の物語。死はいつでも逝ってしまうものにとっての恐怖だけれども、本当は残されるものにとってこそ底なしの不安をもたらすもの。逝ってしまったものは心配をする必要ももうない。 例えばモノは形を留めている限り機能的であり続ける。用途に変わるところはない。そこに思いが詰まっているように見えるのは、それを、造った、使った、守った人々の、本当は見えない姿を今現在使う人が勝手に見取るが故である。だからこそ、形が失われたモノは哀れだと見える。形を失ったことでその思いの連鎖が途切れるから。 たとえ抜け殻のように肉体は残り、静的な物質の収支はそれでほとんど変わりがないとしても、生物の動的な存在としては決定的に何かが失われる。それが死。生物というものを生物足らしめているものは、余りにも当たり前で、余りにも不思議。 生物は時間軸の中でしか表せないものだ、と捉え直してみる。時と共に変化すること、それこそが生物の最大の特徴で、生物を生物らしく見せている要素なのだ、と。だからこそ樹に停まってじっと動かないコアラはぬいぐるみに見える。「タマシイ」が抜けた肉体は生物ではない。それが、少なくともモノではないヒトの脳の生物の捉え方であろうと思う。 死とは詰まるところ、そんな変化の在り方を止めるということ。しかし今までその外側を見つづけてきたヒトには、変化が止まったことこそ解るものの、形を留めている限り、ヒトが生物であることを止めてモノになってしまったということが直ぐには飲み込めないものなのだろう。考えてみれば、九相図などが描かれる背景には、死が、確実にヒトをモノ化していることを見せつけるような意味合いがあるかも知れない。そんなことを漠然と思う。 日常の中に持ち込まれてしまった非日常は、日常とのずれの中で徐々に認識してゆくものなのだ、ということが、ゆっくりと、かつ、めまぐるしく語られる。肉体が徐々に熱を失ってゆくように、そのずれは繰り返し起こることで徐々に腑に落ちてゆく。それが上質に語られる物語。
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内容云々というより、私には訳者との相性が悪かったみたい。 この本の世界に全く入り込めず、 最後まで読むのに少し苦痛を感じてしまった。 ボリュームはたいしたことないのに・・。
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身近な人の死を受け入れるってとってもたいへん。そこに自閉症のダヴィッドのあくまで客観的な言葉がかえってアリスをなぐさめるというのも不思議な印象です。
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