義に生きたもう一人の武将 石田三成 の商品レビュー
実際に地形や遺構を調べた上で図解しながら推論を示してくれていて非常に興味深くまたわかりやすかった。関ヶ原の合戦に至るまでの三成、徳川双方の動きや書状も丁寧に追っている。
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石田村や関ヶ原の合戦場など、自ら足を運んでつぶさに検証されていて、反証しながら議論が進んでいくので、大変に納得できる内容。
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歴史というものは勝者によって記録されて伝えられていくので、真実とは異なった形で伝えられて来ている人物が多くいると思いますが、その中でも私が注目しているのは「石田三成」です。 最近(2012.11)「のぼうの城」が公開され楽しく鑑賞(野村萬斎の演技は素晴らしい)しましたが、そこでの...
歴史というものは勝者によって記録されて伝えられていくので、真実とは異なった形で伝えられて来ている人物が多くいると思いますが、その中でも私が注目しているのは「石田三成」です。 最近(2012.11)「のぼうの城」が公開され楽しく鑑賞(野村萬斎の演技は素晴らしい)しましたが、そこでの石田三成は事実とはかなり異なって表現されている様でした。 この本では、石田三成の企画としては最高傑作とも言える「関ヶ原の戦い」について、彼が強大な徳川家康にどのように対抗したのかについて解説されています。堺屋太一の初期の頃の作品に、これを物語風に書いた「巨いなる企て」という本がありますが、それを思い出しながらこの本を読みました。 以下は気になったポイントです。 ・石田三成の父「正継」は従五位下隠岐の守となり、堺町奉行の代官や佐和山城の実質的な城代として三成の領国経営を行った(p19) ・佐和山はJR彦根の北東(駅を挟んで反対側)にあり、うらぶれた感じになっている、江戸時代に軍事上の重要な山とされ立ち入りが禁止されていた関係もある(p29) ・石田三成は近江国内で19.5万石の領地を与えられたうえに、近江国内の直轄領7万石、父3万石、兄1.5万石を合わせると、実質的には30万石を超えていた(p34) ・蒲生氏郷を殺した首謀者として三成があげられることもあるが、それはあり得ない、蒲生郷舎は、島左近とならぶ重臣として最後まで三成に仕えている(p50) ・秀次失脚事件において、秀次と交流のあった、伊達政宗・最上義光・細川忠興も処罰しようとしたが、徳川家康により彼らは救済された、この事件に関係した多くの大名が関ヶ原で家康に味方した(p53) ・三成は奉行時代に少しも蓄えがなかった、同じく奉行の長束正家の水口城には、金銀5千枚、銀300貫目、脇差1000腰があった(p58) ・三成の行った検地は大名の近代化につながるもので、旧体制を擁護する反対勢力も多く大変であった、島津氏や佐竹氏が関ヶ原で石田についたのは、このときに恩義を感じていたから(p72) ・秀吉は家康の上洛を阻む体制として、東海道の要地には子飼い大名を並べた、甲府城には浅野長政、松本には石川数正、信州小諸には仙石忠政、上田には真田昌幸、沼田には真田信幸、会津には蒲生氏郷(後に上杉景勝)をいれている(p91) ・三成襲撃事件において、三成は徳川家康の屋敷に逃げ込んだといれれているが、実際には伏見城内にあった自分の屋敷に逃げ込んでいる(p99) ・秀頼の命令という錦の御旗がある以上は、諸大名は上杉征伐軍に参加せざるを得なくなった、参加しない場合には謀反を疑われることになった(p121) ・家康がまだ江戸城にいた7.12に、佐和山城にて家康打倒の会議が、三成・大谷吉継・増田長盛・安国寺恵瓊においてなされた、その4日後に毛利輝元は一万余の兵を率いて大阪城に到着している(p129) ・毛利輝元は大阪に到着すると、大阪城留守居役(佐野氏)を追い出し西の丸に入った、これで公儀は、家康から三成派に移った、これにより秀頼を擁する形で家康打倒を目指せるようになった、これは家康の大誤算(p130) ・石田方の伏見城攻めにおいて、城将の鳥居元忠は、援軍として入ろうとした島津や小早川の入城を拒否して玉砕の道を選んだ、これは家康の目論見と違う可能性もある(p135) ・家康が関ヶ原直前に書状を多く書いていた(160、通常の4倍)と言われるが、その半分は諸将から家康に送った書状に対する返書である、多くの大名は家康との接近を図っていた(p143) ・毛利輝元は、大阪城占拠の後には、四国・九州方面において領地化を図ろうとしていた可能性もある(p162) ・毛利が陣をひいた南宮山は、そのもの自体が神体で聖なる場所であり、そこを攻めることは神の領域を汚すことになる、浅井朝倉軍が比叡山に逃げ込んだことがあったが、それに等しい行為、これは合戦を放棄したことを意味する(p183,186) ・小早川秀秋が陣を引いた松尾山城は、西軍にとっては特別な場所(最重要の軍事拠点)であった、これにより三成がつくっていた防衛ラインが崩れた(p194,203) ・大将小早川秀秋の周囲は親徳川の家臣で固められ、また東軍から目付までつけられているので、その中で西軍に味方することは事実上ムリであった(p231) ・予想できなかったことは、小早川対策として配置されていた、脇坂・赤座の軍が突然に大谷軍を襲ってきたこと(p233) ・三成のみが罰せられて、嫡子、次男も処刑されていない、妻も娘、次女も同様(p261) 2012年11月24日作成
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「義に生きたもう一人の武将」というフレーズは、 帯の文句と併せて鑑みるに、 おそらく直江兼続が大河ドラマで取り上げられた際、 兼続と対で「もう一人」という意味で付けられたようです。 しかし内容は特に直江兼続とは関係ありませんでした。 むしろ、この本によると、上杉の挙兵と三成の挙...
「義に生きたもう一人の武将」というフレーズは、 帯の文句と併せて鑑みるに、 おそらく直江兼続が大河ドラマで取り上げられた際、 兼続と対で「もう一人」という意味で付けられたようです。 しかし内容は特に直江兼続とは関係ありませんでした。 むしろ、この本によると、上杉の挙兵と三成の挙兵は 事前に打ち合わせてないということが主張されていたので、 全くちがうタイトルでもよかったと思います。 この本は前半は、三成の人となりや、 よく知られるエピソードを引いて出典を示したり、 悪者としての三成のイメージは、 勝者によって後付されたものであることを解説したりしています。 後半は、関ヶ原の合戦についてです。 布陣の図や写真などが多く、時間の経過や戦略も とてもわかりやすい説明がされています。 小早川秀秋の布陣した松尾山は、 城の大手は中山道に通じる牧田街道に面しており、 関ヶ原の合戦を想定して事前に整備されていた様子があり、 そのことから、ここは近江方面から中山道を通り進軍して入城する、 毛利輝元と、輝元に擁された秀頼が布陣するはずの 場所であったという推論がなされていました。 他の関ヶ原の戦いについて述べた本と、 是非読み比べてみたいと思います。
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様々な文献・史料を参考に、三成という一人物を研究・評価し編纂された本です。 逸話や文献についても、信用度の如何についても記載を添えていたりしますので かなり参考になります。 読みやすく、解りやすいです。
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