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ハンドブック 百人一首の旅 の商品レビュー

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2013/06/13

百人一首に採り上げられた歌枕やその土地について、写真や地図と共に解説した本。 現在と照らし合わせて紹介されているため、歌枕の印象が増します。 また、歌われた当時と今とでは、かなり状況が変わっていることにも気づかされます。 たとえば猿丸太夫の「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞...

百人一首に採り上げられた歌枕やその土地について、写真や地図と共に解説した本。 現在と照らし合わせて紹介されているため、歌枕の印象が増します。 また、歌われた当時と今とでは、かなり状況が変わっていることにも気づかされます。 たとえば猿丸太夫の「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき」。 どれだけ人里離れた寂しい場所かと思っていましたが、この歌が詠まれたのは、宇治駅から13キロほどの宇治川そばの山だとのこと。 今でこそ、車で行けるような場所ですが、当時はまさに「奥山」で鹿が鳴いていたのだそうです。 源宗于朝臣の「山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば」は、大磯の伝相模国分寺跡で詠まれたものだとか。 山里と思いきや、お寺のあった場所での歌だったんですね。 歌の中に全くヒントがないため、そういった状況を想像してはいませんでした。 殷富門院大輔の「見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変らず」や二条院の「わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし」に歌われた 雄島(松島)や沖の石に、実際には二人とも訪れておらず、それほど平安時代の京にも、松島や雄島の風光明美な様は知られていたのだとか。 恵慶法師の「八重葎(むぐら) しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり」の舞台となった六条河原院は、平安時代の初めに源融が奥州塩釜の景色を庭に模倣したもので、現在の渉成園だということも紹介されていました。 歌に何度も登場する大井川(大堰川)は、嵐山の渡月橋を挟んで上下約500m程の川の部分をいうということも知りました。 堰止めをしているからだそうです。 土地の紹介だけでなく、歌の意味や作者についての紹介も充実しており、小野篁は仮病で遣唐使派遣を拒否したということが掲載されてました。 これだけ日本が変わってしまうと、百人一首の歌枕を訪ねる旅は、なかなか風流さを追いきれないものがあるかもしれませんが、歌枕としてかすかに名残は残っているようなので、名残を楽しむことはできそうです。 いずれにせよ、百人一首は平安時代の遠い和歌というわけではなく、現実にその歌枕は今なお存在することを実感できる内容になっています。

Posted byブクログ