中東欧音楽の回路 の商品レビュー
1980年代頃か、思想界で流行った術語に「リゾーム」があるが、これはさしずめそんな仕事。 表紙裏の見開きに地図が掲げられている。向かって右端にはロシアがあって、それをベラルーシとウクライナが縁取る。左端北がドイツで、南はイタリア。中央北にはポーランドがあってバルト三国に続い...
1980年代頃か、思想界で流行った術語に「リゾーム」があるが、これはさしずめそんな仕事。 表紙裏の見開きに地図が掲げられている。向かって右端にはロシアがあって、それをベラルーシとウクライナが縁取る。左端北がドイツで、南はイタリア。中央北にはポーランドがあってバルト三国に続いている。問題が真ん中から下にあるゴチャゴチャだ。オーストリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、モルドヴァ、旧ユーゴスラヴィアの諸国。タイトルにあるとおり中東欧である。 「リゾーム」に対する従来の研究のあり方は「樹状」で、ハンガリーの音楽の歴史はいつ始まり、どのように分化し……と順を追って記述される。あるいは、民衆の音楽と貴族の音楽が階層構造として系統的に論じられる。しかし著者はそこで見失われているものに注目するのである。すなわち各国を越えて、あるいは社会階層を越えて、まさに根茎=リゾームのように広がる音楽。ロマ(ジプシー)の音楽やクレッツマーなどである。ところがそれは正史を持たず、常に移ろっていくためにとらえがたいのである。 9つの章はこのテーマの周りを旋回するが系統だったものではない。さらに各章の間にコラムが付く。取り上げられた話題を思いつくまま書いてみると、シャガールの描くヴァイオリンの由来、ストラヴィンスキーの《結婚》、「民族性」というフィクション、ルーマニアの村のブラス・バンド、ブルガリアのポップ・フォーク「チャルガ」、ズルナと武満徹、水車小屋=粉屋のトポスといった具合で、こうした話題のどこかに引っかかりを見いだす音楽好きは是非手に取ってみられたい。バルトーク論にしろハイドン論にしろ、常に斬新な視点でもって切り込んできた伊藤信宏氏の著作だから裏切られることはないのだが、今回は切り込むというよりも、断片の切り口がどこかで緩やかに繋がっているという風なのだ。 自身の曲の「ハンガリー風」なる形容を「フェイク」と言い放つジェルジ・リゲティの未発表のインタヴュー、豚飼いの角笛を録音しに行ったバルトークの足跡を跡づける紀行なども大変貴重。何よりも本文で触れられた音楽のいくつかが付録のCDに収録されており、1楽章だけながら、パトリツィア・コパチンスカヤの弾くエネスコの第3ソナタが収録されていると聞いたら黙っておれない人もいるだろう。 何より、本書のテーマであるところの、樹状の記述や研究からあぶれてしまう何ものかがエネスコの音楽やコパチンスカヤの演奏にはあるのだから。
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伊東先生は偉いひと。はあ、こういう研究っていいなあ。ストラヴィンスキの「結婚」の成立過程の分析が特におもしろかった。
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