生きるのも死ぬのもイヤなきみへ の商品レビュー
タイトルで買ってしまった。なんて怠け者なんだと。 内容は哲学的。なので、とても具体的に分析していく死や生。 若い世代の対話として、そういう事に一緒に悩んだ体験などを語る。中島さん。 たまに笑える合いの手を、中島さんや、対話する学生達が入れる。
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p15この虚しさをずっと抱えて 生きていくことがとてもつらい ハイデガー 非本来的 本来的 p66 理性が納得できない
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林修さんのテレビで紹介されていたので読破。僕のような小物にはガツンと頭を殴られたような衝撃があり、とても勉強になった。 ここまで常識のタブーをぶち壊してくれる考え方も素晴らしい
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正直、イライラする本なんだけど(笑)、読み終わったら死に対しての考えが変化した気がするから良しとします。これが行動に影響するかは分からないけど、得るものは確実にあって、読んで良かったという実感もあります。 オススメです!とは言えないけど、筆者が正直な物言いをするからある意味爽快...
正直、イライラする本なんだけど(笑)、読み終わったら死に対しての考えが変化した気がするから良しとします。これが行動に影響するかは分からないけど、得るものは確実にあって、読んで良かったという実感もあります。 オススメです!とは言えないけど、筆者が正直な物言いをするからある意味爽快なんで、気になったら読んでみて下さい。
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「生きたくもないし、死にたくもない」がさいきんの口癖(私の)。このタイトルに魅かれないわけがない。『どうせ死んでしまうのに〜』ほどのショックはないが、中島氏の著作には「これは自分のことが書いてある」感を感じてしまう。登場人物A〜Dのうち、女性のBをのぞく全員が私だ。しかし、どうし...
「生きたくもないし、死にたくもない」がさいきんの口癖(私の)。このタイトルに魅かれないわけがない。『どうせ死んでしまうのに〜』ほどのショックはないが、中島氏の著作には「これは自分のことが書いてある」感を感じてしまう。登場人物A〜Dのうち、女性のBをのぞく全員が私だ。しかし、どうしても違う箇所もあったりして、救われたり救われなかったり。氏の本は私のバイブルとなるかもしれない。ただ、はなはだ危険な書物ではある。
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いい意味で悪書。 「どうせ死ぬのだから何をしても虚しい」と思わない人や「誰かを愛し結婚して子供が欲しい」という普通の幸せを求めている人は読まない方がいい。あと、自分で考えて咀嚼できない人も読まない方がいい。 自己愛に溢れた結果、生きにくくて、ある程度自分の考えを持ってて、影響され...
いい意味で悪書。 「どうせ死ぬのだから何をしても虚しい」と思わない人や「誰かを愛し結婚して子供が欲しい」という普通の幸せを求めている人は読まない方がいい。あと、自分で考えて咀嚼できない人も読まない方がいい。 自己愛に溢れた結果、生きにくくて、ある程度自分の考えを持ってて、影響されにくい人は読んだ方がいい。
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必要なパンの量は人それぞれだろうが、パンで満たされない限りは自分を誤魔化し続けるんだろう。それが幸か不幸かわからんが。 「欲望の正体」というのもパンの種類の問題なのか?パン以外なのか?というのもハッキリしない。軽蔑すべき世間・他者からの賞賛・承認というのはよくわからない。この矛盾...
必要なパンの量は人それぞれだろうが、パンで満たされない限りは自分を誤魔化し続けるんだろう。それが幸か不幸かわからんが。 「欲望の正体」というのもパンの種類の問題なのか?パン以外なのか?というのもハッキリしない。軽蔑すべき世間・他者からの賞賛・承認というのはよくわからない。この矛盾を解決できない人は結構ツライのではないか? 人間の魅力に関する自然的特性と社会的特性はわかりやすい。前者によって自己愛は満たされるハズだし、世間一般の後者への嫌悪はあるものの、一方で捨てきれない人も大勢いる。ここは結婚と離婚に大きく関係するところだろう。 結局書名に対する答えの提示は無いような気がするが、多少の自己の正当化には役立つのかもしれない。それも良し悪しだが。
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人は必ず死ぬ。避けようがない事実。哲学者のハイデガーによると、人は、自らが「死への存在」、つまり人は必ず死に、その時は次の瞬間にでもやってくるかもしれない存在である。それはまるで、死刑が執行されるのをその直前まで知らされることがないが、つねに死を意識せざるをえない死刑囚のようであ...
人は必ず死ぬ。避けようがない事実。哲学者のハイデガーによると、人は、自らが「死への存在」、つまり人は必ず死に、その時は次の瞬間にでもやってくるかもしれない存在である。それはまるで、死刑が執行されるのをその直前まで知らされることがないが、つねに死を意識せざるをえない死刑囚のようである。しかし、ハイデガーは、自らが死すべき存在であることを忘れ、または見ないふりをして「気晴らし」に逃げたり、周囲の人の視線にびくびくおどおどする「配慮」に終始している人間を「ダス・マン=没人」と呼び、それは「非本来的な生き方」であると批判する。 では「本来的な生き方」とは、何であろうか。「死への存在」をポジに反転させると、人間は有限な存在であり、だからこそ常に死を想い(メメント・モリ)、人生、突き詰めれば一瞬一瞬をもう二度とやってこない一回限りのものとして精一杯生きるべきだということになるかもしれない。 しかし、中島義道には、そのような出口を許さないような徹底性がある。たとえ、一瞬一瞬を充実して生きたとしても、人は死ぬのなら、結局それも虚しい。彼にとって「死」とは、人が主観的にしか世界を認識できない以上、宇宙の消滅に等しいのである。まさにその容赦ない徹底性こそ、彼にとっての「哲学」なのである。 ここまで、徹底されると、正直ついていけない。私も含めてそのような人は多数派だと思う。中島が述べるように「哲学者」になれるのは、ほんの一握りの人間だけなのだ。しかし、注意しなければならないのは、そうだからといって彼が「哲学者」を他の存在に対して優位に置いているわけではないということだ。哲学者が、政治学者や芸術家や職人よりも優るといいたいわけではないのだ。そのような分をわきまえた態度は清々しい。幸か不幸か「哲学者」になった人は、今日も悩み続ける。
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「生きるのは嫌だけれど死ぬのも嫌」 これは果たして相反する言葉なのだろうか。 生きることを問う哲学書。 とはいえ、作者も述べている通り 疑問に思わない人は読まない方がいいと思う。
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