挑発するセクシュアリティ の商品レビュー
回送先:稲城市立iプラザ図書館 毎度のことながら、関のスリリングあふれる読むこませ方には感心する他ない。この前の作品に当たる『知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門』同様、「セクシュアリティはつまらないですよ」というフーコーの言及はここに来て「セクシュアリティは(内輪...
回送先:稲城市立iプラザ図書館 毎度のことながら、関のスリリングあふれる読むこませ方には感心する他ない。この前の作品に当たる『知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門』同様、「セクシュアリティはつまらないですよ」というフーコーの言及はここに来て「セクシュアリティは(内輪受けする内容しかないので)つまらないですよ」という言い換えも可能であるという鋭い指摘は私自身の言説の構築の再考をも迫る。 とりわけ、私が自分を省みなくてはと思わされたのが第7章。セクシュアリティ研究が「流行のトピック」として消費されて後には何も残らなかったという言い方から始まり、「セクシュアル・マイノリティ」と名乗ることで生じる権力の暴力性(名乗るもの>名乗らぬもの という権力関係。これについては主編者である関も批判している)、コミュニティという閉鎖空間に果たして絶対の価値はあるか、といったように。 実のことを言えば今湧き上がりつつある「マスキュリニティ研究」に関してもその気配を感じないわけではない。日本におけるメンズリブの歴史がざっくりとしか紹介されず、男性学を「古いもの」として区別化する動きの中でマスキュリニティ研究を行おうとする若手研究者が多いのが現状である。とはいえ、古典が多いのが救いといえば救いだが。 クラシック(古典)を読み直すということ、読み続けることの重要性を改めて教えられた気がする。
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