33個めの石 の商品レビュー
米国のバージニア工科大銃乱射事件の犠牲者32名を追悼する32個の石の横に、自殺した犯人を追悼する33個目の石が置かれていた、という話。犯人も行き難い現代社会の犠牲者。 さまざまな偏見、差別、思い込みに満ちた現代社会、気付かずに人を傷つけているのだな。
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09/08/14県立図書館にて借りる。 http://ameblo.jp/sunaba/entry-10279288979.htmlで紹介されていた本。 (09/6/13)
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はっと、気づかせてくれる。。。 少しだけ、ものの見方が変わる。。。そんな本です。 タイトルの33個めの石とは、 2007年、米国の大学で、学生による銃乱射事件が起き、 32人の学生たちが殺された。そして、犯人の学生は自殺した。 被害者の追悼集会がキャンパス内で行われ、...
はっと、気づかせてくれる。。。 少しだけ、ものの見方が変わる。。。そんな本です。 タイトルの33個めの石とは、 2007年、米国の大学で、学生による銃乱射事件が起き、 32人の学生たちが殺された。そして、犯人の学生は自殺した。 被害者の追悼集会がキャンパス内で行われ、 そこには、死亡した学生の数と同じ33個の石が置かれ、花が供えられた。 そう。。。。殺された学生32と犯人の学生で33ということなのだ。 著者は、この考え方に大きな救いを感じたという。 そして、2005年、JR福知山線の脱線事故では、死者107人を出した。 しかし、慰霊の対象は106人だけだった。 そう、ここでは、事故の原因となった運転手は含まれなかったのである。。。 (この話には後日談があるのですが。。。) これは、国民性の違いであるかもしれないが、 人間がこの世に存在したことの価値は、 誰によっても否定されるべきではないのではないか。。。と語る。 他にも、自殺について、「君が代」起立について、差別と偏見についてなど、 さまざまなことについて、少々、偏りはあるかもしれないけれど、 興味深く語られていて、面白いです。 哲学者にありがちな、偏屈さも、それはそれでなかなか楽しい。
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短い文章だが、書かれたことを軸にして、いろいろなことへ発展させていける、刺激を受ける1冊だった。 世の中がどこへ向かっていこうとしているのか、考えさせられた。 『草食系男子の恋愛学』の著者でもある。
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一般社会において重い問題となっているテーマについて、実際に起きた事件などを採りあげ、エッセイ風にわかりやすくはっきりと意見を述べている。そして、人それぞれの心に問いかけている、君はどう思う。33個めの石は、自分にとって大きく重すぎて、どうすることも出来なかった。
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多相的にみえるものごと、あるいは状況に対して、たった一つの視点を与えただけで、それに沿ってモノゴトがきれいに整理されていく。それがうまく決まって、もやが掛かっていた空間がきれい晴れ上がる。すっと、見通しがきくようになる。その快感は、どのような「問題」であっても共通するものだと思う...
多相的にみえるものごと、あるいは状況に対して、たった一つの視点を与えただけで、それに沿ってモノゴトがきれいに整理されていく。それがうまく決まって、もやが掛かっていた空間がきれい晴れ上がる。すっと、見通しがきくようになる。その快感は、どのような「問題」であっても共通するものだと思う。たとえば、数学の問題が解かれる時にも、時事問題に対しても。契約の交渉において対立する二つの立場以外の第三の視点を加えることによって双方が納得するような打開策が見つかる時も。 例えば、幾何の問題における補助線のように、一つの視点がそれまで複雑に思われた問題をいとも簡単に解きやすい形に変化させるようなことも起こる一方で、誤った補助線に囚われて解答に辿り着かなくなることも起こる。複雑な問題に、単純な視点で切り込むことは必ずしもいつでも上手くいくとは限らない。森岡正博のこのエッセイ集には、そんな「すっきり」と「うーん」が混在している。 しかし、それで実はいいのではないか、とも思う。ある物事に対する考えの表明は、常に完了形の説明である必要はないだろうと思うのだ。内田樹のものの捉え方が個人的に好きで、ついつい書かれたものを読んでいると全面的肯定で読んでしまいがちになるので比較してしまいたくなるのだが、それでなくてはいけないということはないのだ。森岡正博の文章は、形の上でこそ、各テーマ毎にゆるやかな起承転結風の四つの文章のかたまりに収めつつ一つの視点を通してテーマに対する考え方を表明しているが、その手際は形の上での定型とは逆に、収まりきらなさがある。快刀乱麻とは程遠い。じくじくとした思いがこぼれている。 時に見事な補助線の与え方があったかと思う一方で、ほとんどの問いは放り出されたままである。いやがうえでも自分の心の声に耳を傾けざるを得ない。そうかも知れない、いやそうではないだろう。様々な声が騒がしく読書する脳の部位に響くように入り込んでくる。しかし不思議と不快ではない。 多少の煩わしさがあったとしても、読み通すことが困難なほどの雑念ではない。それは森岡正博がめったにメタなレベルでものごとを語らないからなのだと思う。自分の感情を問題の一部として認識しているからなのだと思う。全面的肯定とはいかないけれど、この哲学者の言葉は、自分にとって、何か作用する力を持っている。
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