リアリティ・クライシス の商品レビュー
ポール・オースター関係の文献を探している時,この人の論文があった。ニューヨーク三部作に関する文章だったが,掲載されたのが,著者が在籍する大学の紀要,『名古屋大学文学部研究論集』だった。でも,その後その紀要に書かれた4編の論文をまとめて1冊の著書として出版していることを知り,Ama...
ポール・オースター関係の文献を探している時,この人の論文があった。ニューヨーク三部作に関する文章だったが,掲載されたのが,著者が在籍する大学の紀要,『名古屋大学文学部研究論集』だった。でも,その後その紀要に書かれた4編の論文をまとめて1冊の著書として出版していることを知り,Amazonで購入することにした。というのも,私のように大学に在籍していないと,この手の論文はコピーが容易ではないからだ。 本書のタイトルは,ヴァージニア・ウルフに関する論文のタイトルにつけられたもの。オースター論文は「リアリティ消失」と名づけられていた。ともかく,本書で著者は20世紀になって英米文学上で,これまでのいわゆる近代小説が構築してきたような現実性が崩壊しようとしている一般的事態を4人の作家の作品から確認しようと試みる。4人の作家とは,ウィリアム・ゴールディング,ジョゼフ・コンラッド,ヴァージニア・ウルフ,そしてポール・オースターだ。残念ながら私はコンラッドについてはサイードの影響で『闇の奥』を一読しただけ。ウルフについては『燈台へ』を読んだにすぎない。どちらの作品も本書のなかでチラッと登場するが,コンラッドについては『シークレット・エージェント』が,ウルフについては『ダロウェイ夫人』が中心に論じられている。『ダロウェイ夫人』は映画を観たことがあるが,まあ,ウルフのことだから映像化には相当脚色が必要に違いない。ちなみに,私がウルフを知ったのは学術的な関心よりも先に映画からである。『オーランド』という作品が『オルランド』というタイトルで映画化され,できたばかりの渋谷文化村ル・シネマで公開されていたと記憶している。そのころは妙にヨーロッパ的な雰囲気への憧れがあり,文化村には映画くらいしか用事はなかったのだが,たまにその雰囲気に浸りにいったものだ。ちなみに,ウルフの自伝的作品でもあるらしい『オルランド』に主演していたティルダ・スウィントンは素晴らしい存在感だった。 まあ,ともかく何がいいたいかというと,本書は原作を読んでいないととても読みにくい本だということ。文学研究というのはとても難しいと思う。ある作品について批評する場合,その作品を熟知している同じ作品の研究者を読者として想定するか,有名な作品なので粗筋は多くの人が知っているということを想定して書く場合,あるいは全くその作品を知らないことを前提にして書く場合だ。その3つのどれかによって書き方と分量は全く変わってきてしまう。本書が扱うのは(恥ずかしいことにゴールディングという作家の名前を私は知らないが),英米文学研究者ならばその作品には馴染みのあるような有名な作家ばかりであり,もともと大学の紀要に書かれたこともあり,当該作品を読んだことのない読者を想定していないかもしれないが,やはり一般図書にするにはちょっと不親切な論の進め方なのかもしれない。『ダロウェイ夫人』をモチーフにしたという『めぐりあう時間たち』も観ていたので,ウルフに関する章はそれなりに理解しやすかったけど。 でも,目的だったオースターの章はそれなりに面白かった。本書が単なる人間主体のアイデンティティ・クライシスをテーマとするのではなく,その主体がアイデンティティとの関わりで捉えるべきリアリティの方を問題としているように,オースター作品についても,ルフェーヴル『空間の生産』やハーヴェイ『ポストモダニティの条件』を引くことで,都市空間についても考察に含んでいる。他にも私の知らなかったオースター作品に英文の論集を知ることができたし。本当はやっぱり大学紀要に掲載された論文だけコピーしたほうが安上がりだったが,まあ,著者に印税が入ることだし,よしとしよう。 ところで,本書には少し気になることがある。まあ,英米文学研究者だから原著で研究するのは当然だけど,日本語訳で定訳となっているような人名や単語まで自分なりの表記や訳語で通しているのはどうなのかと思う。こだわらなければならない場合についてはそうすべきだが,そうでなければ既存の翻訳にも敬意を払うべきだと思う。まあ,それは細かいことだが,既存の研究の引用の仕方も含め,ちょっと著者独自のやり方に始めないせいか,素直に頭に入ってこないというのが全般的な印象。まあ,変な批判をしてしまったが,それらが自分自身にも跳ね返ってこないことを気をつけないといけない。
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