ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし の商品レビュー
ハンガリーを代表する作家ですと。「プロの旅人」が「雇い主」の依頼を受けてドナウ川の上流から下流を辿って旅し、電報にて報告を送る、という粗筋。電報はほぼ内容ない。喧嘩腰。タイトルは実在した作家であって、本作と全く関係なく、タイトルとしても意味がない。旅をするというテイで、ドナウ川周...
ハンガリーを代表する作家ですと。「プロの旅人」が「雇い主」の依頼を受けてドナウ川の上流から下流を辿って旅し、電報にて報告を送る、という粗筋。電報はほぼ内容ない。喧嘩腰。タイトルは実在した作家であって、本作と全く関係なく、タイトルとしても意味がない。旅をするというテイで、ドナウ川周辺の東ヨーロッパの歴史をつらつらと勉強する本かと思うけども、ある程度の土地の知識などがないと、味わうのはあまりにも困難。こういう絶対売れないと解っている作品を訳して出版する会社はすごい勇気あるなーと思った。
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これはまた珍妙な書物を読んでしまったものだ……「私」と「僕」、「旅人」がそれぞれ語り手となって織り成すストーリーは虚実の皮膜を食い破り、フィクション/ノンフィクション/メタフィクションへと縦横無尽に語り口が変わる。イタロ・カルヴィーノを意識した語り口もあり、その他古典文学からのオ...
これはまた珍妙な書物を読んでしまったものだ……「私」と「僕」、「旅人」がそれぞれ語り手となって織り成すストーリーは虚実の皮膜を食い破り、フィクション/ノンフィクション/メタフィクションへと縦横無尽に語り口が変わる。イタロ・カルヴィーノを意識した語り口もあり、その他古典文学からのオマージュあり。不勉強な私にはついて行けない部分が多々あったのだけれどともあれ東中欧文学が辿った壮絶な歴史がこうしたポストモダンな実験に反映されたものであることは良く分かる。愛おしいほど不器用な、そして愛らしい一冊であると思わされる
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[ 内容 ] 黒い森から黒海まで、中央ヨーロッパを貫く大河ドナウ川。 その流れに沿って町から町へと移動する「プロの旅人」が、行く先々から雇い主に旅の報告書を送る。 その内容は旅行報告の義務を軽やかに無視し、時空を超えて自在に飛躍。 歴史、恋愛、中欧批判、レストラン案内、ドナウの源...
[ 内容 ] 黒い森から黒海まで、中央ヨーロッパを貫く大河ドナウ川。 その流れに沿って町から町へと移動する「プロの旅人」が、行く先々から雇い主に旅の報告書を送る。 その内容は旅行報告の義務を軽やかに無視し、時空を超えて自在に飛躍。 歴史、恋愛、中欧批判、レストラン案内、ドナウの源泉、小説の起源等々を奔放に語りつつ、膨大な引用(その多くは出所不明)を織り込みながら、ドナウの流れとともに小説は進んでいく…。 [ 目次 ] [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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「東欧に生きる人々の拠り所-これが精一杯でした。」 ドナウ源流から黒海まで、雇い主の依頼によってドナウを下る旅に出た旅人。中央から東ヨーロッパを流れるドナウに沿って、おじとの思い出、沿岸や流域の町についての歴史、ゆかりの小説や詩歌、著者が生きてきた当時の東欧の社会情勢をからめな...
「東欧に生きる人々の拠り所-これが精一杯でした。」 ドナウ源流から黒海まで、雇い主の依頼によってドナウを下る旅に出た旅人。中央から東ヨーロッパを流れるドナウに沿って、おじとの思い出、沿岸や流域の町についての歴史、ゆかりの小説や詩歌、著者が生きてきた当時の東欧の社会情勢をからめながら、時空を思うまま往き来して綴られるドナウの旅。 ここに『利根川』というタイトルの本があるとします。その源流上越国境から関東平野を流れ千葉県銚子で太平洋に注ぐに至る300キロを超えるこの川の沿岸にゆかりの歴史や人物-例えば川端康成の『雪国』に始まって、講談でおなじみの塩原太助とか、渋沢栄一の「論語とソロバン」、天保水滸伝の平手造酒、果ては銚子醤油の創始者浜口儀兵衛というように-書き手の想像力のままに綴られた作品があったとして、日本に一度も着たことが無く、おおよそこの国のことを知らない遠くハンガリーに住むハンガリー人の一般主婦がこれを読んだとしたらどういう感想になるのでしょうか。 知識不足の読み手の能力の限界ということはもちろん否定しないのですが、エステルハージ家というハンガリーの名門大貴族の末裔で共産主義の治世から東西冷戦の終結という激動の東欧を生きた著者ならではのこの作品世界は、その背景を知らぬ以上ただ黙って向き合うより仕方がありませんでした。 「東欧のことは東欧の人間にしかわからない。東欧人であることは、自分自身がわからないということ」だと著者は言います。負け惜しみではありませんが、だとすれば本書は極東の一主婦に理解してもらおうと書かれたものなどではなく、自分とは何か、著者が自分自身に問うつもりで書かれたものであるようにも思えます。 長い間歴史の大きな波をかぶり続けた東ヨーロッパ、ここに国という概念さえ確たるもではない場所に生きてきた人を思います。この土地柄にあっては、自分とは何かを考えるときに唯一その拠り所なるのが「ドナウ」なのかもしれません。なぜなら、沿岸に生きる人の営みがどのように変化しようともその流れは決して変わることが無いのでしょうから。
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ハンガリーの「ポストモダン文学」。ただこのような紹介だと「ポストモダン」いう言葉にあまりいいイメージを持たない人は、読む気が失せるかもしれません。「どうせ実験的で突飛なものを狙っただけでしょ」、と。けれども、「ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし」の価値というのは、ハンガリーという...
ハンガリーの「ポストモダン文学」。ただこのような紹介だと「ポストモダン」いう言葉にあまりいいイメージを持たない人は、読む気が失せるかもしれません。「どうせ実験的で突飛なものを狙っただけでしょ」、と。けれども、「ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし」の価値というのは、ハンガリーという中欧の国においては、「もはやポストモダン的であることを強いられる」ということを鮮やかに、そして苦味ととも描き出している点です。
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