Ex-formation植物 の商品レビュー
もし「花」という存在がなかったなら、 世界はずいぶんと地味になる。 花には輝く明るさがあり、 人類はこの輝きに照らされ、 自分たちの日々の幸福や生死を始末してきた。 「植物」もしかり。 僕らは植物学や生物学、 あるいは文学と異なるアプローチで この対象物に接してみる価値がありそう...
もし「花」という存在がなかったなら、 世界はずいぶんと地味になる。 花には輝く明るさがあり、 人類はこの輝きに照らされ、 自分たちの日々の幸福や生死を始末してきた。 「植物」もしかり。 僕らは植物学や生物学、 あるいは文学と異なるアプローチで この対象物に接してみる価値がありそうだ。 この研究を通してそんなことを考えた。_____原研哉 p16 世界を捉えなおす概念装置 Ex-formationとは物事を「未知化」する試みである。知らせる、分からせるのではなく、「いかに知らないかを分からせる」、あるいは、まるで初めてそのものを見たり経験したりするような新鮮さで、物事の様相を伝えてゆく営みである。これは案外と簡単ではない。(中略)知るということの本質は、知っているはずのことを未知なるものとして、そのリアリティに素直におののいてみることである。世界は永久に解読不能である。その解読不能性に気づき、そこから豊かな驚きや感動や問いを生み出し続けることが創造である。世界を既知なるものに置き換える行為ではなく、未知なるものとして、その不可思議におののき続けられる感受性が創造性である。答えを書くのではなく、問いを発することこそクリエーションである。さらにコミュニケーションの観点からいうならば、情報の力とは、受け手の脳を運動させていく力である。「知っている」と反応させることはむしろ運動の停滞を招く。まるで初めて見るもののように、既知なる対象物を新鮮に輝かせてみせることこそ、コミュニケーション・デザインなのではないだろうか。(中略) p17 植物を未知化する 植物とは何だろうか。(中略)だから叡智は人の側よりも穀物に実りを与える自然の中にあると考え、自然の中から知恵を汲み取るように文化を生み出してきた。まさに植物との交感が、日本人の暮らしや世界観に切実なインスピレーションを与えたわけである。(中略)植物は、動物のようには考えないし、運動もしないが、しかし旺盛な生命力と繁殖力で、付与された環境の中で最大限生きている。状況に不平も言わず、喜びもせず、ひたすら静かに、最大限の生存と生長を期して、倦まずたゆまず生育している。100年を1秒とする単位の時間の中では、樹々は大地から打ち上げられる花火のように見えるかもしれないが、現実世界ではそのようなダイナミックな運動はない。樹々の葉は、ひたすら効率よく太陽光を受けとめようと1枚1枚が光に身をかざしている。これが「茂る」という状況であろう。刹那の「茂り」が連綿と時間を超えて連続し、森や林、草原や田畑、そして我が家のプランターや花瓶の中で植物というものの形をなしている。考えるほどに植物というもののリアリティが揺らいでくるが、この一連の研究は、まさに「植物」をそのような認識の揺らぎの中に解き放ってみる試みである。問題はいかに素敵な「問い」を生み出せるかである。以下の研究は、その問いかけである。 p74 植物を食べている Herbivorous 遠藤直人 私たちは「植物」を食べている。しかし普段はそのように意識してはいない。それは「野菜」や「果物」といったように、食用の植物に特別な名前を付与しているからである。ここではレトリカルな技法を用いて、「植物を食べている」という行為のリアリティを浮び上がらせるということを目的としている。 スーパーなどに行きトレイにパックされ、値札の貼られた姿を見ると、私たちはそれを「食物」だと思い込んでしまうのではないか。本研究は、そのように人間が「食物」だと思い込んでしまうパッキングとラッピングという仕組みを逆手に取り、日常で「食物」を見ている時とはまったく違う意識の覚醒をうながす試みである。たとえば、トレイにきれいに敷き詰められ、パックされた苔を見た時、私たちの頭の中には「この苔は美味しく食べられそうだ」という感情と、「苔なんて食べられないだろう」という2つの感情が同時に芽生えるのではないだろうか。そういった2つの感情が同時に芽生えた瞬間、「野菜」や「果物」という呼称が作り出した目の鱗が外れ、私たちは普段「植物を食べている」という事実をリアルに感じるのである。
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