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何も共有していない者たちの共同体 の商品レビュー

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2022/12/17

旅する哲学者アルフォンソ・リンギスの著作。コミュニケーションの意味やあり方を言語の、文化の、時間の、そして生と死の境界から問い直す。論理から言語から離れたところにある価値を論理の集積としての学術書に落とし込むことの不可能さに挑戦するリンギスの文章は詩的で美しい。 「自分自身の歌...

旅する哲学者アルフォンソ・リンギスの著作。コミュニケーションの意味やあり方を言語の、文化の、時間の、そして生と死の境界から問い直す。論理から言語から離れたところにある価値を論理の集積としての学術書に落とし込むことの不可能さに挑戦するリンギスの文章は詩的で美しい。 「自分自身の歌を歌うためには、ちょうど他者を自分固有の愛で愛するためには自分の理解と心のすべてを必要とするように、自分の感受性のすべて、悲しみ歓喜する力のすべて、そして自分の時間のすべてを必要とするからである」 素晴らしかった。

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2022/09/04

感想 難しい…。オセロ盤で将棋するのは難しいよみたいなことを言ってるのかな?言語と空気を共有してないと無理みたいな?ノイズがないと進化もない?

Posted byブクログ

2021/01/11

タイトルから想像する話と違った!私たちのコミュニティは普段、「共通する価値観etc」を持った者たちによって成り立っているけど、異なる存在と出会ったとき、どう向き合うか、コミュニケーションをとるか。コミュニケーションも、共通する記号(言語)があって初めて成り立つ。それを超越するもの...

タイトルから想像する話と違った!私たちのコミュニティは普段、「共通する価値観etc」を持った者たちによって成り立っているけど、異なる存在と出会ったとき、どう向き合うか、コミュニケーションをとるか。コミュニケーションも、共通する記号(言語)があって初めて成り立つ。それを超越するものは生と性、死と愛。(と私は理解した。)哲学的というか、著者の見えている世界を切り取った思索的なものなので、この人生きづらくないだろうかと余計なことを思ってしまったけど、これだけ分断が叫ばれる世界で、彼に共鳴する人はきっと多い。

Posted byブクログ

2020/06/28
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

人間同士を何か既知の"タイプ"に押し込めて会話しがちだが、人間の独自性とは既知のタイプに押し込めるものではなく、言語にできない、非合理的な特徴に現れるものだから、何も共有できないというただ一つの共通点を持つもの同士として付き合っていくしかない。必要なのは理解や共感ではなく許容である。

Posted byブクログ

2013/08/24

松岡正剛×武田隆の対談で、武田氏が引用していた。 「自分の感受性のなかにだけある力、他の誰にでもできないように愛し、笑い、涙を流す力への関心は、世界中の裏道や小路に、自分のキスと抱擁を待っている人びとがいるという確信、そして自分の笑いと涙を待ち望んでいる湿地や砂漠があるという確...

松岡正剛×武田隆の対談で、武田氏が引用していた。 「自分の感受性のなかにだけある力、他の誰にでもできないように愛し、笑い、涙を流す力への関心は、世界中の裏道や小路に、自分のキスと抱擁を待っている人びとがいるという確信、そして自分の笑いと涙を待ち望んでいる湿地や砂漠があるという確信においてのみ可能となるのである」という一節のように、インターネットの世界には、このロマンが大事だと思うんです。 ジョーゼフ・キャンベルなら「そして、孤独だと思いこんでいたのに、実は全世界が自分と共にあることを知るだろう。」 読んでみたい(20130726)。 ↓ 読み終わった(20130824) ・クロード・レヴィ=ストロースは『野生の思考」のなかで、アマゾンの先住アメリカ人が自分たちの環境に関する厳密に経験的な表象を精巧に作り上げていたことを明らかにした。彼らは、風聞やおおよその知識と、有効な知識とを周到に区別する方法をとった。環境に存在する自然物質や生物の種、その特性や用途に関する彼らの識別眼のほうが、現代の私たちの生物学や動物学、薬学のデータがもつものよりも、往々にして、ずっと包括的だった。アマゾンの先住民が作り上げた表象は、観察し検証する際に経験的精密さを厳しく追及するという点で、私たちのものと同等であった。彼らの手にした実際の表象はただ、認識の面で立ち入ることのできた領域が限られていたことと、調査と実験に使う道具が技術的に限られていたことによって制限されていただけである。 ・古代ギリシアの通商港湾都市に異邦人がやってきて、ギリシア人に「どうしてそのようなやり方をするのか?」と尋ねたとしよう。人間の集団が独自性を築き上げた社会であればどこであれ、この問いにたいする答えは、昔も今も変わらず、「私たちの父祖がそうしなさいと教えたからだ。私たちの神々がそうあるべきだと命じたからだ」というものである。ところが、ギリシア人が、そうした先祖や神々を共有しない異邦人にも受け入れられる理由―明晰な精神の持ち主であれば誰でも受け入れられる理由―を与え始めたとき、何か新しい事態が誕生したのである。こうした理由を与える言語行為は制約である。このように回答する者は、自分の発言に縛られ、発言の理由を与える約束をし、さらにその理由にたいする理由を与える約束をしていることになる。彼は自分の発言の責を負うのだ。 ・西洋で合理的な倫理学について最初の論文を書いたアリストテレスは、勇気をすべての美徳の最初にあげた。それはたんに、等しい価値をもつ様々な美徳のリストの最初に来るというだけではない。勇気は超越的な美徳なのであり、すべての美徳の可能性の条件なのである。というのも、勇気が無ければ、正直であることも、寛大であることも、友人であることも、あるいは愛想よく会話することすらできないからだ。そして、あらゆる勇気は、評判、仕事、財産、命を失う危険を覚悟して行われる行為なのである。 ・何を語るかは、結局のところ、ほとんど重要ではない。きみはどんなことでも口走ってしまうだろう。たとえば、「大丈夫だよ、お母さん」と。きみはこんなふうに言うことは愚かなことだと知っている。母親の知性に対する侮辱ですらあることも分かっている。母親は自分が死ぬということを承知しているし、きみよりも勇敢なのだから。母親はきみが言ったことを責めたりはしない。結局、何を言うかは大して重要なことではないのだ。要請されていたのは、何かを語るということだけであり、それは何であっても良かったのである。きみの手と声が、彼女が今しも漂いゆく、何処とも知れぬ場所に付き添って伸ばされること。きみの声の暖かさとその抑揚が、彼女の息が絶えようとするまさにその時に、彼女のもとに届くこと。そしてきみの目が、何も見るものがない場所に向けられている彼女の目と出会うこと。このことだけが重要なのである。 語ることと語られた内容のあいだに裂け目が開いてしまうような、こうした状況を知らない者はいない。語るということ―これが本質的で絶対に必要なことだ―が、語られたことから切り離されてしまう状況、語られたことの方は、もはや要求されておらず、ほとんど必要とされてもいない状況を。 ・トマス・クーンは、新しい科学革命はすべて、同じ自然と空の配置を見る新しい概念上の方眼なのではなく、新しい地球と新しい空が目に見えるようになるゲシュタルト変化だと述べている。

Posted byブクログ

2009/10/04

読み途中。とにかく前文で泣いた。本文も難解なところとそうでないところがあり、その混交具合にも意味があるような気がする。気をつけて読みたい。

Posted byブクログ