現代国家と人権 の商品レビュー
法学部に通っていながら政治学や基礎法学の魅力に取り憑かれ六法系科目は殆ど勉強しなかったが、サトコーの『憲法』だけは手垢で黒ずむくらい繰り返し読んだ。別に佐藤学説に惚れこんだ訳でもないが、有名な先生だからというミーハー根性と、政治学を学ぶ者として、この科目だけは司法試験受験組に負け...
法学部に通っていながら政治学や基礎法学の魅力に取り憑かれ六法系科目は殆ど勉強しなかったが、サトコーの『憲法』だけは手垢で黒ずむくらい繰り返し読んだ。別に佐藤学説に惚れこんだ訳でもないが、有名な先生だからというミーハー根性と、政治学を学ぶ者として、この科目だけは司法試験受験組に負けたくないという他愛もない意地に過ぎない。 佐藤幸治は京都学派の憲法学を受け継ぐと言われるが、それが師弟関係という以上にさしたる意味を持つわけではない。憲法改正無限界説に立つ佐々木惣一や「押し付け憲法論」を唱えた大石義雄と佐藤との距離は、宮沢俊義や芦部信喜と佐藤との距離よりずっと大きい。(佐藤は芦部同様、帝国憲法と現憲法の法的連続性を否定しており、実質的には宮沢の「八月革命説」に近い。) また佐藤の人権論は東大で英米法を講じた伊藤正己から決定的な影響を受けてもいる。 一つだけ言えるのは、良くも悪くもイデオロギー色の強い東大憲法学に対して、法の客観的な論理解釈を重んじる法実証主義的な傾向があるのは確かだ。とは言え佐藤には多分に折衷的なところもあり、文章は難解だが論理的な切れ味はそれほどでもない。面白味には欠けるがバランス感覚に優れた堅実な憲法学と言える。だからこそ司法試験委員にもなり、行政改革や司法制度改革に担がれもしたのだろう。決して悪い意味で言うのではない。ケルゼンやシュミットのような寸鉄人を刺す法律学は、魅力的だがどこか現実から遊離している。評者はある意味では陳腐な佐藤憲法学からリーガリズムならぬリーガルマインドの何たるかを学んだように思う。 本書は佐藤の比較的新しい論文集だが、表現が極度に圧縮されて難解な概説書に比して、内容は高度だがむしろ分かり易い。「人格的自律権」を基礎とする佐藤人権論の到達点を示すものであると同時に、佐藤が主導した行政改革や司法制度改革の理論的背景を知ることができる。「自己情報のコントロール」を主眼とするプライバシー権を論じた著者30代の論文は佐藤人権論の出発点をなすものであり、また本書のために実質的に書き下ろされた「憲法と人格的自律権」では、『憲法』初版以来の批判への応答とその新版、第三版への反映が順を追って紹介されており、佐藤人権論の発展・深化のプロセスを辿ることができる貴重な論文だ。「人格的自律権」は佐藤の哲学的な価値観と不可分であることは否定できないが、あくまで日本国憲法の解釈論として提出された概念であることを忘れるべきでない。佐藤はドゥオーキンの権利論に深く共感しながらも法学を茫漠たる道徳の世界に委ねることはしなかった。 行政改革や司法制度改革については 、佐藤の憲法学がバックボーンになってはいるが、制度改革自体は、積極国家化の進展の中で「日本国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質」という佐藤自身の現状認識をふまえた政策論であり、佐藤の憲法学への評価とは一応切り離して考えるべきものだ。その上で言うのだが、現段階で結論を出すのは性急に過ぎるとしても、その現状認識の甘さはやはり否定しようもない。それが小泉政権が推進したグローバリズムに歩調を合わせた改革万能主義とシンクロしてしまったことは、佐藤にとって(そして法曹界にとって)不幸であったと言う他ない。
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