ふくろう女の美容室 の商品レビュー
レイモンド・カーヴァーの大聖堂を奥さんの視点から描いた作品がキャンプファイヤーに降る雨。 最初の表題作、二十一発礼砲と聞いて相手を「ベルイマンの映画に出てきそうな憂いのあるハンサム」から「うまく年を重ねたジェラール・ドパルデューに近かった」と見直すとこで、あーこりゃ私の好きな作...
レイモンド・カーヴァーの大聖堂を奥さんの視点から描いた作品がキャンプファイヤーに降る雨。 最初の表題作、二十一発礼砲と聞いて相手を「ベルイマンの映画に出てきそうな憂いのあるハンサム」から「うまく年を重ねたジェラール・ドパルデューに近かった」と見直すとこで、あーこりゃ私の好きな作家だ!と思った。 そして読んでいる途中でふと思い出してカーヴァーの『ささやかだけれど、役にたつこと』を見ると、序文がテスによるカーヴァーを偲ぶ追悼文だった。前は読み飛ばしてた、今が出会うべき時であったか、と思う。 お母さんとの「庭」をめぐる対談もいい。
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裏表紙に書かれていた言葉は、「喪失」と「光」。 私たちの人生を、絶えず彩るもの。 時間が過ぎ行く度に、どちらも旋回しては眩しくなっていくのだと、この女性が記している気がします。 短編を読み終わった後の彼女のエッセイは、彼女自身の生命を注いできた「言葉」というものへの静かな熱...
裏表紙に書かれていた言葉は、「喪失」と「光」。 私たちの人生を、絶えず彩るもの。 時間が過ぎ行く度に、どちらも旋回しては眩しくなっていくのだと、この女性が記している気がします。 短編を読み終わった後の彼女のエッセイは、彼女自身の生命を注いできた「言葉」というものへの静かな熱情が、物語の余韻を滑らかに温かくしています。
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小説はあまりピンとこなかったのですが、最後の「父の恋文」というエッセイがよかったです。もうひとつのエッセイは母親との庭についての対談でしたが、会話があまりかみ合っていないところが逆におもしろかったです。純粋に庭いじりが好きなだけの母と、それを詩的に捉えようとする娘。
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人生の一瞬の機微に焦点を当て、そこから小さな光を見つけるような短編集。 「ウッドリフさんのネクタイ」、「キャンプファイアーに降る雨」、「祈る女」がお気に入り。
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こういう内に向かう感じのアメリカ人には会った事がない。 女の人生が、その男に会った瞬間から始まったわけではないと知っている男…みたいな下りに、共感。
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最初はわけがわかんねーなと思いました。 いや、分かるんだけど、 そーいう分かるじゃなくて、 あたしにはどーもこの登場人物達のキモチが分からない。 そう思いながら読みました。 でも、最後の二篇のエッセイを読み、 このテス・ギャラガーという人の考えを知って、 もしかして、背伸びをした...
最初はわけがわかんねーなと思いました。 いや、分かるんだけど、 そーいう分かるじゃなくて、 あたしにはどーもこの登場人物達のキモチが分からない。 そう思いながら読みました。 でも、最後の二篇のエッセイを読み、 このテス・ギャラガーという人の考えを知って、 もしかして、背伸びをしたら分かるんじゃないか。 そんな気になりました。 小説を、もう一度、ひとつひとつ読んでいきたいと思います。
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「すげえもんだ。たしかに世渡りの才や魔力は消えたが、ダニーらしさはいまだ健在だ。おれはふと、思った。復讐が甘美なものだとするなら、それは復讐がちょっとばかし切ないだけじゃなく、切なさとそして、一生引きずっていかねばならない重みってもんを学んでいるせいなんだ。そしてしばしば、人は切...
「すげえもんだ。たしかに世渡りの才や魔力は消えたが、ダニーらしさはいまだ健在だ。おれはふと、思った。復讐が甘美なものだとするなら、それは復讐がちょっとばかし切ないだけじゃなく、切なさとそして、一生引きずっていかねばならない重みってもんを学んでいるせいなんだ。そしてしばしば、人は切なさを甘美さと取り違えてしまう。」『むかし、そんな奴がいた』 本書を読みながら、別の夫婦のことを考えていた。ポール・オースターと妻と元妻のことを。元妻の作品が放つエネルギーの大きさに比べて妻の作品には影の濃さが目立つ。けれどもそれはオースターの作品と並んでみると、両者とも不思議としっくりとし、調和的であるようにさえ感じる。一方で、テス・ギャラガーのこの本は、カーヴァーとの対比が上手くイメージされてこない。そもそもカーヴァーという名前のつながりで読んでいるのに、である。 オースターの妻と元妻の作品を読んだ時、オースターの作品とどこかしら補完的であるような香りがし、そのことで生じるコントラストのようなものを感じもした。作品のスタイルのようなものは、全く違うのにである。一方で、ギャラガーの作品は、どこかしらカーヴァーの短篇のスタイルを彷彿とさせるところがあり、同じような語り口であるようにすら感じるというのに。余りにも似かより過ぎているのだろうか。そのせいで、対比もなにも浮かんでこないのか。 カーヴァーの作品には、周りからの孤立という雰囲気が常に漂い、いつも過去に向けられたまなざしを意識させられた記憶があるが、ギャラガーの作品にも似たような佇まいがある。特に、この短篇集に収められた作品たちが、いずれも「死」というものと分かちがたく結びついていることで、カーヴァーの雰囲気を彷彿とさせるのかも知れない。でもどことなく違和感もある。 カーヴァーの孤立は諦観とも似ていて、じっとどこにも動くことがない。一方ギャラガーのこの本からは、ロッキングチェアーに収まって思い出を語っている、というような気配はない。走りながら、こぼれ落ちそうになる記憶を別の形になんとかして収め直して閉じ込めたいというエネルギーが溢れている。そのことが「死」へ向けられたまなざしと少し斜めに交差する。しかし、そのじたばたした感じが、ロッキングチェアーに収まるカーヴァーの放つ過去へのまなざしと、逆に寄り添うものであることも、徐々に見えてくる。 カーヴァーは村上春樹という翻訳家に恵まれたと思う。その翻訳された作品は、声に出さずとも音読するのが楽しい作品となっている(特に詩集はいい)。それを割り引いたとしても、やはりカーヴァーは自然に物事を身体で受け止める人だったのだということが、作品から漂ってくる。そして、ギャラガーは、もっと頭で書く人のようである。翻訳されたものを読んでも、いかにすぐれた翻訳家をもってしても、カーヴァーのように音にするような楽しみのある文章とはならないような気がしてしまう。 そこまで考えてみて、ようやくカーヴァーとギャラガーの補完関係のようなものが見えてくる。ギャラガーはカーヴァーが自然にできてしまうことを、理屈に直してみせる役割を担っていたのかな、と思うのである。そしてそれを支えていたのは、静かな幸福感というものだったのであろうな、とも思うのである。
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短篇10作とエッセイ2篇を収めた、日本語版オリジナル作品集。 がつがつ読まないで、終わらないように、終わらないようにと願いながら少しづつ読み進めたくなる。光の粒がぱぁ〜と空に消えていくような読後感。同じ未亡人でも、銀のシャベルを持った未亡人より、こちらの未亡人たちのほうが友人にし...
短篇10作とエッセイ2篇を収めた、日本語版オリジナル作品集。 がつがつ読まないで、終わらないように、終わらないようにと願いながら少しづつ読み進めたくなる。光の粒がぱぁ〜と空に消えていくような読後感。同じ未亡人でも、銀のシャベルを持った未亡人より、こちらの未亡人たちのほうが友人にしたいかも。 「むかし、そんなやつがいた」の冒頭、「石の箱」「来る者と去る者」「ウッドリフさんのネクタイ」の終わりの言葉が印象的で心に沁みる。
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