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最古の農村・板付遺跡 の商品レビュー

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2011/10/09

博多湾に面した福岡平野の中央部にある板付遺跡は、水田稲作が始まる弥生時代の基本的内容を明らかにした遺跡として有名である。 実は、2005年の12月二回の大雪に見舞われながら敢行した北九州平和と古代を訪ねる旅において、私はこの遺跡に訪れている。その時の記事がこれだ。この写真以外に...

博多湾に面した福岡平野の中央部にある板付遺跡は、水田稲作が始まる弥生時代の基本的内容を明らかにした遺跡として有名である。 実は、2005年の12月二回の大雪に見舞われながら敢行した北九州平和と古代を訪ねる旅において、私はこの遺跡に訪れている。その時の記事がこれだ。この写真以外にも豊富な写真を撮ったのであるが、なんとその次の年に落雷と思われる事故によって、保存していない総てのデータを喪失するという事件が起きた。痛恨の極みである。 この記事の復元田んぼの写真を見ても分かるように、弥生時代早期、稲作の技術を日本で始めたそのときから、水路、堰、畦ともに現代とほぼ変わらない技術水準、少なくとも板付遺跡の南、博多区の三築遺跡で5C-中世の水田跡が発掘されているが、やや新しい機能も付加されているが、構造的にまったく同じ水田が作られていたことがわかっている。福岡平野で最初に伝播した水田構造が、古墳時代まで継承されて大きな変化を見せていない。驚くべきことである。最新の炭素同年代の測定を信じるならば、約1500年間変化がなかったことになる。 その間、何世代の交代があったのだろうか。20年交代だとして75世代。その間に環濠が流行ったこともあった。小さな戦争もあった。奴国の中心地となり、中国から金印を戴いたこともあった。倭国騒乱となり、やがて卑弥呼を宗主に祭り上げた。やがて五世紀ごろに此処も大和国の律令体制に入ってしまう。確かに戦争もあった。しかし、それ以上に大和は最初加耶との交易権を独占し、その次に鉄の大事な輸入先であった栄山江流域をも百済と同盟関係を結ぶことで潰してしまった。磐井の叛乱は最後の抵抗だった。以後この地には大宰府が置かれ、都に対する重要な港としての位置しか持たなくなるようになる。……というようなことを妄想してみました。 板付遺跡の面白い遺構に「水田に残る無数の足跡」がある。洪水によって保存されたのである。出てきた足跡の調査を県警の鑑識課にお願いしたという。餅は餅屋である。歩いた足跡にメジャーを当て、歩幅を計測し、足跡に石膏を入れて足跡のレプリカを作る。結果は「この歩いた人は歩幅や足の大きさから見て、身長は164センチ前後、歩行途中で滑りそうになり、あわてて体勢を立て直している」とまで分かったという(わりと背が高い。江戸時代になると、日本人の背が低くなることを考えると、この時期の日本人は現代の人とあまり変わらない様子だったのかも)。9人がこの水田を歩いていたことも分かった。また、農作業のときは全員素足で動いていたことも分かった。3000年前の宗教や政治体制その他色々と分からないことは多い。けれども、3000年前のあるときのほんの一瞬の出来事がこんなにも鮮やかに浮かび上がる考古学の不思議に感動する。さらに分かったことは、回りの樹木のあとからこの水田は途中一度14年目ぐらいに大きな水害にあっている。そして28年目に大きな洪水にあって永遠に使われなくなった。そのときこの水田と一緒に生きた弥生人の人生が見えた気もしたのである。

Posted byブクログ