京都学派の遺産 の商品レビュー
京都学派の哲学が、現代の環境問題にどのように貢献しうるのかというテーマについての論文を収録しています。 井上克人の論文「環境と人間」では、とくに西田幾多郎の哲学に、ディープ・エコロジーの限界を乗り越える可能性を見ようとする試みをおこなっています。彼は、自然を「調和」や「共生」と...
京都学派の哲学が、現代の環境問題にどのように貢献しうるのかというテーマについての論文を収録しています。 井上克人の論文「環境と人間」では、とくに西田幾多郎の哲学に、ディープ・エコロジーの限界を乗り越える可能性を見ようとする試みをおこなっています。彼は、自然を「調和」や「共生」といった美しいことばでとらえようとするディープ・エコロジーにおいては、「生命」の奥底に潜むさまざまな矛盾や葛藤が見られていないと批判します。一方、西田幾多郎の「絶対無の場所」という思想においては、禅に通じる側面をもちながらも、そこに安住することのない「矛盾的自己同一の世界」が考えられており、不断の露現的湧出と覆蔵的帰滅とが同時に働いているような世界のありかたが論じられていました。こうした西田の思想に、絶対に他なるものからの呼びかけに対する感受性につらぬかれた倫理への手がかりがあるという主張がなされています。 安部浩の論文「現代日本において「共生」は何故かくも流行しているのか」では、わが国において「共生」という概念がたどってきた歴史的経緯を概観し、「いかなる存在者も、それ以外のあらゆる存在者との相違相続の関係においてのみ存在しうる」という仏教的な縁起の発想がそこに根づいていることが指摘されています。ただしこのような「共生」観は、自己主張や自己表現に基づく具体的行動を禁ずる役割を果たしてしまうという問題を孕んでいると著者は指摘し、そのうえで矛盾対立を含む現実の構造をあつかう山内得立の「レンマの論理」に、こうした問題点を克服する道を求めています。 嶺秀樹の論文「田辺元と自然の問題」では、和辻哲郎の風土論を独自に発展させたA・ベルクと田辺元の哲学を対比しながら、風土に帰属する人間の倫理と、自由に行為する人間の倫理とを「媒介」する可能性を見いだそうとする試みがなされています。
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