ブダペストの古本屋 の商品レビュー
『あそこにあるロシアの言語学者ポリワーノフの論文集は、独ソ戦の最中にソ連経由で帰国する途中、船待ちをしていたコーカサスのバクー港の本屋で、棚のすみから見つけ出したのだったとか』―『ブダペストの古本屋』 1982年出版と奥付にあるのでそれほど昔の事ではないと考えてしまうことが既に...
『あそこにあるロシアの言語学者ポリワーノフの論文集は、独ソ戦の最中にソ連経由で帰国する途中、船待ちをしていたコーカサスのバクー港の本屋で、棚のすみから見つけ出したのだったとか』―『ブダペストの古本屋』 1982年出版と奥付にあるのでそれほど昔の事ではないと考えてしまうことが既に歳を取った証拠なのだろうけれど、収められた随筆は昭和40、50年代ものが中心とはいえ、戦前に遡るものもあり時の隔たりを感じずにはいられない。何より書き記された往時の記憶が、それは追憶という言葉が想起するような郷愁のようなものではなく、強く残滓のみが残された過去を連想させる。自身の日記を振り返って記したという記述もあるとはいえ、詳細な過去の記載は著者徳永康元の眼を通して写し取られた写真のよう。そう、それは「報道」という接頭語を冠してもよいような、淡々とした記述に埋もれてしまいそうな歴史的出来事の描写である。 紀行文(特に著者の関心の中心である東欧圏への旅で訪れた古書店の思い出話)と呼んでよいだろうものが多い随筆集だが、誰かに読まれることを想定しつつもそこに執着していない素っ気のない文章が並ぶ。誰かに語って聞かせる風でもなく、かと言って自分自身のための備忘録でもなく。いつか誰かに読まれるかも知れないとぼんやり思いつつ書き記す日誌のような文章。著者の関心事(特に古書店に対する興味)への熱心さは大いに伝わってくるとは言え、それすらさして執着がある風でもないように見える捉えどころのない文章。そこにはどんなに隠そうとしても滲み出てしまう筈の作家の主義主張のようなものの片鱗が微塵もないのだ。 失われることを前提とした価値観を体現したような生き方を激動の時代を潜り抜けてきた著者は悟ったのだろうか。著者の辿った足跡見れば、維新以降猛烈に西欧文化を吸収してきたエリート達の系譜に繋がるもののようにすら思えるのに、そんな自負のようなものは噯(おくび)にも出さず、淡々とバルトークのハンガリー国内での最後の演奏会を聴いたことや、リスト最晩年の高弟の一人ザウアーのピアノ演奏を聴いたことなどが綴られる。自分がそこに居たという事実を、それ以上にもそれ以下にもせずに、やがて忘れられていくことを当たり前のこととして、だが記さずにはいられないこととして文字にする。徳永康元は記憶ではなく記録の人だったのだなとしみじみ感じずにはいられない。
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ハンガリーなどを研究されていた故徳永康元先生のエッセイや論考をまとめて出版されたもの。先日千野栄一さんの「プラハの古本屋」を読んで,そこで紹介されていたので読んでみました。 第2次世界大戦中にハンガリーに留学したときの出来事や何とか日本へ逃げ帰った話などをはじめ,面白い話がたく...
ハンガリーなどを研究されていた故徳永康元先生のエッセイや論考をまとめて出版されたもの。先日千野栄一さんの「プラハの古本屋」を読んで,そこで紹介されていたので読んでみました。 第2次世界大戦中にハンガリーに留学したときの出来事や何とか日本へ逃げ帰った話などをはじめ,面白い話がたくさんでした。共産党政権下の古本屋をはじめいろんな国々の古本屋の話が,「プラハの古本屋」に続き出てきて,その点も興味深かったです。
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