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柄谷行人初期論文集 の商品レビュー

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2013/03/09

著者の柄谷自身がその存在すら忘れていたというような初期に書かれた論文がこうして日の目を見るというのが、柄谷にとっていいことなのかどうか、本人ならずとも気になるところである。柄谷の書くものなら売れるというのが、今になって出版する理由なのだろうが、もっぱら営業的理由による出版というこ...

著者の柄谷自身がその存在すら忘れていたというような初期に書かれた論文がこうして日の目を見るというのが、柄谷にとっていいことなのかどうか、本人ならずとも気になるところである。柄谷の書くものなら売れるというのが、今になって出版する理由なのだろうが、もっぱら営業的理由による出版ということで、校正も編集部任せとことわっている。どうやら書いた当人にとっては用済みの論文といいたいらしい。 たしかに、若書きゆえの強引さや断言口調が目につくものの、しかし、これはこれでなかなか魅力的な論文集である。書かれている内容もさることながら、批評家たらんとする自負や気概が文章の端々から匂い立つようで、懸賞論文として書かれたものもあるというから、審査員として同時代に読んだ人はさぞかし後世畏るべしの感を抱いたにちがいない。 全編を通して感じるのは、自己の思想的営為に対する真剣な検証を忘れている凡庸な思想家に対する若い柄谷の苛立ちや怒りである。「思想はいかに可能か」のプロローグには、こう書かれている。 凡庸な思想家は殆ど現実的情勢の変転に応じて「無自覚のうちに」しかも「大義名分によって」めまぐるしく変転して行かざるをえない。無変化も変化の一種にすぎない。しかし、彼らの変化無変化は彼らが信じているように現実的条件の変動に応じているのではなく、また現実的変動にも拘わらず死守されているのではなく、実に彼らがその内部において自己の相対化を残忍なほどに検証するという不可欠の営為を済ましていず、またこれからも済ますことがないためなのである。「思想」は全く個人の内部においてのみ問われるので、現実的諸勢力の関係によるのではない。 現実的勢力による思想的変転といえば具体的には「転向」を指すが、洋の東西を問わず、どのような時代にあっても我々は「現実的な支配秩序と、それと逆立する幻想的な支配秩序との間に繰り広げられた「相対」と「絶対」の葛藤のパターンを歩む他はない」のである。初期論文集に一貫するのは、変化する外部と、「個人」の内部で行われる思想的営為の葛藤というテーマである。 「『アメリカの息子のノート』のノート」では、ユダヤ人問題や黒人問題を俎上にのせ、それらを語るときに論者がとる二つの立場の間に起きる「断絶」を説く。「つまりわれわれが個別的な意志や実践の場に立つばあいと、意志をこえた関係や構造を洞察しようとするばあいとの間には、決定的な位相的断絶がありこれらを連結する論理はない、ということである」。ここでも問題にされているのは、個人の意志の問題と外部にある関係や構造の葛藤である。 「現代批評の陥穽―私性と個体性」で問題にされているのは、現代批評のもつ傾向、つまり、表現において語っているのが「私」でなくて「潜在的システム」(フーコー)、「私ではなくなった<私>」(ソレルス)であるような、「書く(語る)」ことの「私有性」を排撃しようとする傾向である。柄谷は、人間存在を抽象化する時に起こる「私有性」と「個体性」を区別しながら、「私有性」を排撃するあまり「個体性」を喪失してしまってはならないと説く。 現実的勢力も、個人の意志をこえた関係や構造も、さらにはわれわれを先見的に呪縛する潜在的システムも、一見みな外部にあるように見える。しかし、「私」という存在もまた、現実にある構造やシステムの一部である。「私」が仮構されたものだというなら、「私でなくなった<私>」というのもまた仮構である。クラインの壺のように外部と内部は通底しているのだ。この一見断絶しているように見える外部と内部とを往還することこそが問題なのだ。 批評とは、自分を取り巻く現実を意識化すること、言い換えれば抽象化することである。しかし、「抽象概念は、具体的な経験からにつめられ、しぼり出されるように抽出されてきてのみ、意味がある」と柄谷は言う。この熱っぽい言葉に、初期柄谷を貫く強い意志を見ることができる。最近の柄谷はNAMの運動にいそがしく、著作も対談等に限られ、読者は物足りない思いをしていた。初期論文集の刊行はその渇を癒すことだろう。本意ではない論文の刊行を許した著者に感謝したい。

Posted byブクログ