精神障害と犯罪 の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
人が犯罪を犯し刑務所へ収監される、これはその人の更正、社会防衛、懲罰としての意義はあるが、積極的に社会のために役立ったという事例に、私は出会ったことがない。 しかし、本書に何回か登場する(本書は2007.7.27に開催されたパルルディスカッション「精神障害と犯罪-精神医学とジャーナリズムのクロストーク」の内容を書籍化したもの)元衆議院議員の山本譲司は別だ。彼の入獄経験は見事に彼のその後の人生に生きているだけでなく、その実態を世間に知らしめたと言う点で価値がある。 累犯日本人受刑者の中では精神・知的、身体、両方に障碍のある人たちの割合が実に6割になっていると言う現実。受刑者の大半は、模範囚(内実はともかく反省の態度が見られれば)として刑期の半ばで仮釈放されるのに、知的・精神的に障碍のある彼らは、罪の意味、反省の意味も表し方も分からないため、満期まで出所できないこと。 その多くは家族親戚からも見放され、身元引受先もなく、出所後は再び罪を犯し刑務所へ戻るしか術がないことなどを語っている。 囚人を刑務所へ収容し刑に服させるには、それが障碍がある受刑者の場合、年間400万円かかる。裁判の費用も1300万円かかっている。食べるのに困っておにぎり一つ済んでも、累犯の場合3年も服役することになる。 確かに、罪は悪い。しかし、そのようなことをしないで済むように、生活面の支援はできないのだろうか。お握り一つで2500万円の税金を使うより、生活保護等の手だてを講じて無銭飲食をしないで済むような支援は考えられないのだろうか。 無策のまま、罪人をつくるだけの法治国家であってはならないと思う。 また、刑罰の目的は何だろうか。 我が国の刑罰は、本来更正社会復帰を目的としていたはずだ。たしかに、被害者感情を考えると、「報復感情の充足」という点もある程度理解できる。最近の厳罰化の流れの中で、自分の犯した罪の重さ、刑罰の意味も分からないまま、被害者の感情、被害者への償いの気持ちも持てぬまま、処刑されていく被告が増大している傾向がある。刑罰はただ単に報復感情を充足するための場であってはならない。私は死刑制度に賛成ではないが、それ以外の選択肢が無い場合もあることも認識している。 しかし、その場合でも、少なくとも自分の犯した罪の重さは認識させた上でないと何の意味も持たないと思うのだ。 「目には目を」とするのならば、恣意的に幾つかの事件だけでそうするのでなく、全ての犯罪においてそうするべきだ。 法制度が「社会的リンチ」を助長してはならない。それらは得てして、反論できない、その能力さえもない知的・情緒的障害をもった被告たちにだけ集中的に向けられてしまうからだ。
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