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日本的霊性 の商品レビュー

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2021/09/28
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p279 「仏の説き給う般若波羅蜜というのは、すなわち般若波羅蜜ではない。それで般若波羅蜜と名付けるのである。」 p282 「君らのそう逃れたいという生死なるものは何処にあるのか。誰か君らを縛っているものがあるか」こういう塩梅に逆襲してるのが禅論理の特性である。普通の常識をまず否定されて、その否定がまた否定されて、元の肯定に帰るというのは周り遠い話である。しかし我々の意識は事実上この回り道をやらないと承知しないのである。こんな面倒なことができるのは人間の特権である。人間にのみ霊性的生活が許されてあるからである。 このまだるこしさが人間以外にはないと言うところに人間の悲劇と喜劇がある。動物にはもちろんそういうものはない。人間以上の神であるとかあるいは天人と言うなものにしてもこの人間的なまだるこしさと言うものはない。つまりこのまどろこしさ、悩み、煩いと言うような事は人間の特権だと言っているのである。般若はこの人間の特権と言うものをはっきりと認めている。そこに霊的生活の世界が開けていくのである。 ※ 以下、即非の理論について述べたwebから引用 即非の論理などと言うといかにも物々しいが、「一切皆空」が仏教の根本原理であることを了解していれば実に当たり前のことなのである。   「山は山ならず、これを山と名づける」 我々は山を見て「山」と言う。しかし、「山」と呼ばれるものの実体はないと言うのが、「山は山ならず」と言う所以である。 山は土と石でできている。その山を少し削るものとする。そしてその土と石をバケツに入れたとする。私たちはそのバケツに入れられた土と石を決して山と呼ぶことはない。また、少しくらい削られても、相変わらず元の山を「山」と呼ぶ、削られた分確実に変形しているにもかかわらずである。

Posted byブクログ

2020/01/12

https://ameblo.jp/yasuryokei/entry-12563900054.html

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