漱石を書く の商品レビュー
小説家である著者が、漱石の主要著作を読み解いている本です。 著者は、高校時代に漱石の『こころ』を読んで不満をおぼえ、後年に小説家となってその不満を晴らすためにパロディである『彼岸先生』を執筆しました。その意図について著者は、「「漱石学」の枠内で批評的に行なわれていた漱石の偶像破...
小説家である著者が、漱石の主要著作を読み解いている本です。 著者は、高校時代に漱石の『こころ』を読んで不満をおぼえ、後年に小説家となってその不満を晴らすためにパロディである『彼岸先生』を執筆しました。その意図について著者は、「「漱石学」の枠内で批評的に行なわれていた漱石の偶像破壊、もしくは「脱構築」とはまったく別のレベルで、漱石を書き換えてしまいたいという欲望」があったと述べています。 ここで著者が言及している「漱石学」における「偶像破壊」の試みとは、桶谷秀昭、蓮實重彦、大岡昇平、柄谷行人らの業績のことを意味しています。かつて小宮豊隆に代表される、「則天去私」に道徳的な完成を見ようとする漱石解釈に対して、江藤淳がまったく異なる漱石像をえがきました。それにつづく上述の論者たちのしごとは、近代小説の文体と近代的自我が相互形成されていく日本文学史解釈の大きな枠組みからズレていくような契機を漱石の作品のうちに見いだし、漱石を中心とする近代日本文学史を脱構築する試みであったということができるでしょう。 著者は、そうした解釈を踏まえながら、みずから漱石の作品を読みなおすことで、著者自身が漱石に対しておこなったパロディの試みに通じるような批評性を、漱石自身のしごとの反復ないし増幅として理解するような視座を示そうとしています。
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ブログ更新:『漱石を書く』島田雅彦著の「猫」について http://earthcooler.ti-da.net/e9285165.html 島田はその経緯に触れたうえで、漱石が自らの狂気を相対化するために用いた文体、すなわち「写生文」に注目する。写生文とは、漱石の盟友正岡子規と高浜虚子が中心となって提唱した短歌・俳句革新運動を指す。漱石はその客観的な写実の方法を独自にアレンジして、「大人が小児を視るごとき」立場と定義づけた。それによって狂気に陥っている自らをも客観視する余裕が語り手に生まれるということだろう。同作においても、作者自身のパロディとされる主人公珍野苦沙弥はもちろんのこと、周囲の登場人物も「吾輩」という猫の一人称によって写生されまくる。
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ふと思い立ち再読。 島田雅彦の本はそれほど読んだことがない(多分2冊程度?)ので、本作が作家にとってどういった位置付けにあるのか判断できませんが、漱石の一つの読み方としてありだなと素直に思う。 この本は作家の知性の成せる業だろうが、行きつくところ100年も前になろうかとする作品が...
ふと思い立ち再読。 島田雅彦の本はそれほど読んだことがない(多分2冊程度?)ので、本作が作家にとってどういった位置付けにあるのか判断できませんが、漱石の一つの読み方としてありだなと素直に思う。 この本は作家の知性の成せる業だろうが、行きつくところ100年も前になろうかとする作品が今もって何ら違和感なく読むことを可能とする巨人・漱石の産物の一つというありきたりの陳腐な結論でしょうかな。 ちょっと島田作品も再読含めて追いかけてみよう。
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夏目漱石の「こころ」をモチーフにした「彼岸先生」を作品に持つ島田氏の漱石論。通俗小説家としての漱石に注目し、彼の作品に潜むエロティシズムを分析しています。本書の執筆時期あたりから、島田氏の作品が教養主義的な方向に傾倒していくという気がする。
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