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音楽が聞える の商品レビュー

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2020/02/10

萩原朔太郎、北原白秋、宮沢賢治、高村光太郎、尾崎喜八、串田孫一、高田博厚、片山敏彦、立原道造、中原中也たちの詩や随想のなかに音楽を聞き取ろうとするもの。音楽といえば、旋律・韻律・和声の3つの要素だが、文学では主に韻律が関わって来ると思うのだが、そう単純なものでもないらしい。最初の...

萩原朔太郎、北原白秋、宮沢賢治、高村光太郎、尾崎喜八、串田孫一、高田博厚、片山敏彦、立原道造、中原中也たちの詩や随想のなかに音楽を聞き取ろうとするもの。音楽といえば、旋律・韻律・和声の3つの要素だが、文学では主に韻律が関わって来ると思うのだが、そう単純なものでもないらしい。最初の方では、とにかく詩に音楽を感じるということが述べてあるが、どうも踏み込みが足りないような気がする。あれっ、もうこの人については終わりなのって感じだ。それが串田孫一から急に様々な考察が始まる。どうも、串田孫一と中原中也について一番語りたかったようなのだ。 ちょっと心に引っかかったところを書き出してみる。 「楽しみに聞く、気楽に聞き流すときの受動性は、積極的で苛烈な音楽の創造活動とは、テンションの距りの大きさという点で、他のあらゆる分野以上のものがあり、そのことが逆に音楽を音楽たらしめている」 「串田の随想の本体は、何の思想的メッセージも含まずに、ひたすら奏でられつづける音楽になったところにある」 「精神を凝視する、内面に分け入ってその気をひしひしと感じとることはすでに音楽的なことであり、音楽に聞き入るというのに等しい」 「理屈めかしていうと、音楽は言葉に内在しているのである。実は何にでも内在可能なのが音楽で、風景にも内在すれば、人間という生きものにも内在している」 「言葉は本源のものに帰らなければならない。ものに到達したらそれは感動だ。ただそれは感じることによってしか証明できない。この本源のものに到達したという感動が、中也にあっては「いのちの声」となり、「歌」というものになった」 「詩を読むということは、生命の過程に身をどっぷりと涵ことである。過程になりきることである。帰するところ、それは音楽の状態になるということを意味しているのではないか。音楽はそれを奏でているあいだ、それを聞いているあいだは、一瞬一瞬がすべて過程なのだから」 リルケは「音楽は、ないものまであるようにみせるから」と言って警戒していたというのだが、確かに実際の音楽は受動的に聞く者に強制的に迫ってくるもののようにも思える。詩にあるのは音楽性であって、実際の音楽とは微妙に違うものなのかもしれないなどとも思う。

Posted byブクログ