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あるかなしかの町 の商品レビュー

3.8

5件のお客様レビュー

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2023/07/02

 1920年代のパリ郊外「べコン=レ=ブリュイエール」という町についてが淡々と描写されていく。──と書いてしまえばもうこれ以上この本について説明できることがない。むしろ説明できることが一瞬で済んでしまうというそのこと自体への感慨(のなさ)がこの本を読んでいる時に私の内側にどこから...

 1920年代のパリ郊外「べコン=レ=ブリュイエール」という町についてが淡々と描写されていく。──と書いてしまえばもうこれ以上この本について説明できることがない。むしろ説明できることが一瞬で済んでしまうというそのこと自体への感慨(のなさ)がこの本を読んでいる時に私の内側にどこからともなくたちあらわれ、輪郭を結ばないままゆれてざわめいた妙な気分に似ている。「あるかなしかの町」というのは邦題だが、まさにズバリのすごい題名だと思う。  べコン=レ=ブリュイエールは実在するか否かみたいなことをあまり考える気にはならない。調べるのも薦めない。調べたところで、おそらくは実在し、しかしながら実在しないという一見矛盾した、しかし納得のいく(納得のいくというのはなんてつまらないことなんだろうかとこれを書きながら思い、また、この本に"納得のいく"要素なんて全然いらないとも思う) 結果が待っている。  当たり前だがホラー小説ではない。不思議なことも起きない。だけどなんというか、私の読みながらの妙なざわめきというのは、たとえるならば「幽霊を読んでいる」というのが表現として一番近い。私は幽霊を見たこともないし、ましてや読んだことなんかないのだが、そう思う。  "場所の記憶"というのがある。「地獄先生ぬ〜べ〜」の文化祭の回で扱われた石の記憶と同じ考え方だ。私は幽霊というもののメカニズムは「場所の記憶」で説明がついてしまうのでは?とつねづね思っているのだが、この本に書かれていることも、文章に直截あらわれているわけではないが、ともあれたちのぼるのは、場所の記録であり、記憶であり、やはり幽霊を読むという感触に至る。  これを読んでて思い出した、内容に全然関係ないことを最後に書く。これは私の記憶について。 「あるかなしかの町」をなぜ読んでみようと思ったのかは思い出せないが、本屋で購入した年度は思い出せる。10年ほど前である。どこの本屋で購入したかも思い出せる。地元の最寄りから二ツ離れた駅前の本屋である。どうやって購入したかも思い出せる。書店員さんに取り寄せてもらったのである。私はその書店員さんに想いを寄せていたのだ。しかし、前述したが、なぜこの本を取り寄せたのかというのは思い出せない。どこの本屋でという場所は分かるが、その本屋の名前は思い出せないし私が地元を離れてからすぐに潰れてしまったからもう店名も分からない。想いを寄せていた書店員さんの名前も顔も思い出せない。私が思い出せることといえばあとはもう、この本を取り寄せてもらったはいいものの書店員さんとのそこから先の展開などなく、また、買っておいて10年ほど経つのにこの本を読んでなかったということで、だから、私の記憶というのはあってもなくても意味がない。あろうがなかろうが本棚に「あるかなしかの町」があって、読んだ。もうこれ以上この本について説明できることがない。

Posted byブクログ

2015/11/30

80年以上前、パリ郊外のある町を描いたエッセイ。 淡々としていて生活感がなく旅人目線で、解説を読むまで住人だとは思わなかったです。でも住人の町に対する姿勢、愛情はいつの時代にも通じる所を感じ、時々時代感覚のズレに、戦前なんだよ、戦前、と自分に言い聞かせながら読んだ一冊でした。 写...

80年以上前、パリ郊外のある町を描いたエッセイ。 淡々としていて生活感がなく旅人目線で、解説を読むまで住人だとは思わなかったです。でも住人の町に対する姿勢、愛情はいつの時代にも通じる所を感じ、時々時代感覚のズレに、戦前なんだよ、戦前、と自分に言い聞かせながら読んだ一冊でした。 写真がまたマッチしていて素敵です。

Posted byブクログ

2013/03/06
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

瀟洒な本である。新書より少し大きめのサイズで葡萄茶色のクロース装。白いカバーは撒水車が 掃除をし終わったばかりの朝のパリを撮った写真で飾られている。七つの章の扉にも同じロベール・ドアノー撮影によるパリ郊外の写真が配され、余白をたっぷ り取った組版、全頁二色刷という近頃まれな贅沢な造りになっている。 『あるかなしかの町』というのは日本語版のために訳者がつけた題名で、原題は「ベコン=レ=ブリュイエール」。パリ郊外にある町の名前であ る。作者のエマニュエル・ボーヴは、両大戦間のフランスで活躍した作家。その独特の観察眼とユーモアのある文章から「貧乏人のプルースト」と呼ばれていた が、最近になるまで忘れ去られていた。 小説ではない。詩的散文によるエッセー集で、ボーヴを一躍有名にした『ぼくのともだち』や『ともだちのいもうと』といった小説とは少し味わ いの異なる文章が集められている。これがフランス流のエスプリというものか、ユーモアの中にも仄かな苦味がまじった筆致で淡々と描き出されるのは、ベコン =レ=ブリュイエールという郊外の町とそこに住む人々の姿である。 パリのサン=ラザール駅から列車で十分という距離に位置するベコンは、まだ市内の交通手段が発達していなかった当時のパリにあって、交通の 便のよくない市街地より通勤に便利な新興郊外地として売り出し中の町。ただし、生粋のパリジャンから見れば、「パリジャンと言っても、ベコン=レ=ブリュ イエールのパリジャン」というお定まりのジョークに使われるような町でもあった。 パリ「郊外」は、今でこそ堀江敏幸の作品にも登場するなど、一つの文学的イメージを持っているが、この本が「フランスの肖像」叢書の一冊として出たとき、ちょっとしたスキャンダルが起きたほど、文学的対象としてまったく無名であった。 ベコンは、「あるかなしかの町」である。パリに通うために何本もの列車が通り、サン=ラザール駅からの終電は劇を見終わってから食事をする くらいの余裕があるというのに、駅長もいなければ貨物の取扱いもない。ベコン=レ=ブリュイエール(ブリュイエールのベコン)と言うが、ヒースやエリカと 同じ花を指すブリュイエールの花もない。町の通りをどれだけ行っても広場に行き当たることがない。たまたま広い空き地に出ると、そこは町が拡張するときの ために準備されている建築予定地であったりする。 この、~でない、~がない、という文末表現の頻出は脚韻のように文章に一つのリズムを作って見せる。そこに醸し出されるのは、何々でないベ コンの町という、いわく言い難いベコンの町の在りようである。否定形を多用することでしか描き出されない、これといった魅力のない、物語や映画の中には出 てきそうもない慎ましやかで、それでいて田舎の人のように木訥とも言えない人々の住む、中途半端な町の佇まいが、諧謔味をおびた卓抜な譬喩とともにプルー ストにも比肩される精妙な観察眼に裏打ちされた描写力で叙される。そのあまりにも真実味のある叙述に、何度「これは、ぼくの町のことだ。」と、呟いたこと か。 ボーヴは、私的な事情があって一年足らずベコンの町に住んだことがあるという。旅人というには長過ぎるが、住人というには短すぎる、その滞 在が絶妙の距離感を生じさせ、この滋味のある詩的散文を生んだのであろう。いつも手許に置いて、短い一章を玩味するように愛読するに相応しい書物である。 描かれているのは大戦間のフランスの郊外都市であるが、現代日本のどこにでもある「あるかなしかの町」に住む大人の読者にこそお勧めしたい。

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2011/05/17

ロベール・ドアノーは有名な「パリ市庁舎前のキス」を撮った写真家だ(もっともこれは俳優を使った意図された構図らしい)。彼の著書「不完全なレンズで」には、ドアノーの撮った下水路とか、出勤する労働者が撮られている。 そのドアノーの生まれたポルト・ドゥ・ジャンティイ(Porte de G...

ロベール・ドアノーは有名な「パリ市庁舎前のキス」を撮った写真家だ(もっともこれは俳優を使った意図された構図らしい)。彼の著書「不完全なレンズで」には、ドアノーの撮った下水路とか、出勤する労働者が撮られている。 そのドアノーの生まれたポルト・ドゥ・ジャンティイ(Porte de Gentilly)によく似た「ベコン=レ=ブリュイエール(Becon-les-Bruyères)」という町。サン・ラザール駅から10分ほどの場所にある。この本の舞台だ。 1920年代。当時のパリの「衛星都市」。まだベッドタウンという言葉が生まれる前に、たぶん住宅業者が造成した町。その町の「なにもなさ」をスケッチしたボーヴの、乾いたユーモアが心地良い。 いまでこそ昔からの意匠を守り続けるパリだが、ちょっと前まではスクラッチ&ビルドの町だった。ジャック・タチの「僕の伯父さん」のように、古い屋敷がどんどん新興住宅街に姿を変えていった。そこに住む人の根無し草加減。それが気持ちいいのが、都会ぐらしなのか? ボーヴも、ドアノーも、古いパリと新しいパリの中間に挟まったような感じがしたのだろう。 こんな町、日本にもあったな。

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2009/10/07

「当時すでに大人で、子供の目で見ていたわけではなかったのに、街路はなぜか今日より小さく見えていた。ベコン=レ=ブリュイエールはいつの間にか立派になったのだ。」 実在の町であるにも係わらず誰も正確には指し示すことができない町。そんな町のことを綴った「だけ」の本が、何故に心を揺さ...

「当時すでに大人で、子供の目で見ていたわけではなかったのに、街路はなぜか今日より小さく見えていた。ベコン=レ=ブリュイエールはいつの間にか立派になったのだ。」 実在の町であるにも係わらず誰も正確には指し示すことができない町。そんな町のことを綴った「だけ」の本が、何故に心を揺さぶるのか。とっさに思い浮かぶのは「郷愁」という言葉だが、それが実はそうではないことは引用した文章からも明らかだ。この文章に出くわして頭の中が奇妙に捻じれるのを感じずに居られる人は数少ないだろう。普通は逆なのである。郷愁の町は現実には小さく見えるものなのだ。だからボーヴの文章に寄せられてしまう共感のようなものが郷愁とは少し異なるものに基づいているだろうと思うのである。しかし一方で小さな地方の町で育った身にとって、ボーヴの描く町の変化は余りにも馴染み深いのものであるとも言える。それで勘違いしそうになる。 読み進めるうちに考えさせられるのは、ボーヴが回りくどく描き出そうとしているのが、はたして「幸福」な思い出であるのか「不幸」な記憶であるのかどちらなのであろという疑問である。文章から感じ取れるニュアンスとしては中立よりもやや悲観に寄ったところがあるのだが、更に読むうちに、これはどうも幸せな思い出を語っているのではないだろうかという気になってくる。 しかしそれは子供の頃の無邪気な幸福感とは異なる。失われていってしまう何かにかろうじて気付けたことに対する、いわば寂寥感を伴う大人な幸せであろう。とすればそれはひょっとして変化することに対して誰もが感じているであろうちょっとした違和感の裏返しであると言えないだろうか。 変化は進歩をもたらし喜ばしいことである筈であるのに、どこかで変わりたくないとする気持ちがある。それは変化の激しいこの現代にも共通した感情の表れだ。都会と地方を結ぶ電車の窓から眺め続けた景色の記憶の中にあるひとコマ、ひとけのない小さな池があって周りを木々が囲んでいるその場所、そこを通る度にいつも感じていた喜び、そんな幸せな記憶を大切に仕舞ってあるように、ボーヴの文章の中には不思議な幸福感が潜んでいると思うのだ。

Posted byブクログ