その時歴史が動いた(16) の商品レビュー
今回のシリーズも興味を持った内容が多く、特に、大塩平八郎と、ベルサイユ会議での日本による人種差別撤廃の提案に関わる内容は印象に残りました。 今では人種差別をしないのは常識になっていますが、植民地支配が全盛の時代に日本がイニシアティブをとって人種差別撤廃を提案したのは活気的だと...
今回のシリーズも興味を持った内容が多く、特に、大塩平八郎と、ベルサイユ会議での日本による人種差別撤廃の提案に関わる内容は印象に残りました。 今では人種差別をしないのは常識になっていますが、植民地支配が全盛の時代に日本がイニシアティブをとって人種差別撤廃を提案したのは活気的だと思いました、もっとも中国の権益保証をイギリスとアメリカにしてもらった日本は少し残念に思いました 天神・菅原道真、政治改革にたおれる/右大臣・菅原道真、陰謀の容疑で九州大宰府へ左遷 ・道真が中央政界に躍り出た890年当時、日本の財政は危機的な状況にあった、各地で財源がつきていて税金が殆ど入ってこなかった(p36) ・地方の豪族は、国に土地を取り上げられるのであれば、貴族や寺院に寄進して(名義料を納付)実質は自分の土地として経営した(p38) ・税金は成年男子にかかったので、道真の時代には、戸籍上は10人のうち一人しかいなかった(p42) ・税制を取る基準を人から土地へと変えようとしていたが、これによって既得権益を失う貴族は快く思っていなかった(p46) ・道真を追放(901年)したあと、左大臣の藤原時平は、彼の用意していた政策を実行した(p55) 役人の不正許すまじ/大塩平八郎、決起の時 ・与力とは代々続く土着の役人で、出世はなく一生与力のままであるが、町のことをすべて把握している事務のエキスパート、東西町奉行所に各々30人、部下(同心)は両方で1000人いた(p78) ・無尽を利用した不正が行われていた、掛金2430両のうち、716両(=1.43億円)が主催者に不正着服されていた(p83) ・かつての享保、天明大飢饉は冷害に見まわれれやすい北方の凶作地帯に集中したが、天保の大飢饉は他地域にも波及した(p91) ・大塩は蔵書1241冊をすべて売り払って、668両(1億円以上)を手にして、大坂の町に札を配って、それとの引換に1朱を与えた(p97) ・大塩の乱はすぐに鎮圧されたが、その様子は人々の口から口へを経て全国に広がり、共鳴した人による反乱や一揆が相次いだ(p102) 田中正造 足尾鉱毒事件に挑む/環境保護運動、ここに始まる ・明治23年(1890年)頃、足尾銅山は日本一の生産を誇っていた(p124) ・銅は銃砲の弾にも使われることがあり、足尾銅山で生産を続けるのは政府にとって重要な政策であった(p130) ・田中正造は谷中村に移り住んで、生涯を閉じるまでの9年間(1913年まで)、村の復活を願ってともに生きていった、昭和48年(1973)閉山した(p151) 王宮の恋 サラエボに散る/世界大戦を招いた暗殺事件 ・フェルナンド皇帝は帝国の威信に傷がつくと思い、爆弾を投げ込まれたにもかかわらず、パレードを中止せずに続けた(p185) ・当時ロシアは「汎スラブ主義」を掲げ、スラブ民族のセルビアを緊密な関係にあった、一方ドイツは「汎ゲルマン主義」を掲げてオーストリアを支援していた、イギリス及びフランスは植民地の利権争いからロシアを支援していた(p192) ・現在の欧州は、緩やかな統合を目指していて、ハプスブルク家のやり方(支配下の国々の自由を認める)と似ている(p196) 日本の夢、ベルサイユに散る/パリ講和会議、人種差別廃止提案の挫折 ・ベルサイユ会議での牧野への日本政府からの指示は、「会議において中国での利権を死守すること」であった(p210) ・世界各地から27カ国の代表が参集した華麗な開会式は表向きであり、主な議題は、米英仏伊日により別に開く首脳会議によって決定されることになっていた、参加者は日本以外は首相もしくは大統領であった(p212) ・当時、原首相が日本を離れられなかった理由として、1)講和会議の内容が重要になると判断していなかった、2)成立間もなく、米騒動等の国内混乱があった、である(p220) ・最初の会議において人種差別廃止を盛り込むことに賛成したのは、ブラジル・ルーマニア・チェコスロバキアのみ、殆どが保留した、反対は植民地を持つ、イギリス、フランス、ベルギーであった(p228) ・最終の17カ国による採決において、賛成:11、反対:5であり、日本案が勝ったように思われたが、アメリカより「全会一致でなかったので採択されない」とされた(p237) ・日本案否決に対して日本は脱退を考えたが、米英より、妥協案として中国における利権を保証するとされたので、日本は条約調印を決めた(p239)
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