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物語 タイの歴史 の商品レビュー

3.9

24件のお客様レビュー

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2024/01/07

諸外国との関係のバランスをとって上手いことやってきたというのがタイの歴史のイメージでした。本書を読んだ印象は、実際にそうだとしても、強力な政治力のもとでコントロールしたというより、状況に応じて右往左往しながらやっていたら結果そうなったというものでした。 政局の話題がメインになっ...

諸外国との関係のバランスをとって上手いことやってきたというのがタイの歴史のイメージでした。本書を読んだ印象は、実際にそうだとしても、強力な政治力のもとでコントロールしたというより、状況に応じて右往左往しながらやっていたら結果そうなったというものでした。 政局の話題がメインになっていて、なかなか物語のように読むという感じではありませんでした。それだけタイの政治状況が不安定で複雑だということでしょう。

Posted byブクログ

2023/02/24

この本の前にベトナムの歴史を呼んだ。 その繋がりで東南アジアの歴史に興味を持つ。 カンボジア、ラオス、ビルマ、そしてタイ。 さてタイという国のことを 今どれだけ知っているか。 友達がよくタイに遊びに行ってる。 日本企業の工場があるだろう。 欧米のどこかの国の植民地だった? う〜...

この本の前にベトナムの歴史を呼んだ。 その繋がりで東南アジアの歴史に興味を持つ。 カンボジア、ラオス、ビルマ、そしてタイ。 さてタイという国のことを 今どれだけ知っているか。 友達がよくタイに遊びに行ってる。 日本企業の工場があるだろう。 欧米のどこかの国の植民地だった? う〜ん・・・ほとんど知らないなぁ。 読んでみての感想。 欧米諸国の東南アジアへの介入。 その狭間で独立を保ち 立憲君主制の国。 近代でも政治的クーデターがあり それを王様が調停する。 日本では考えられない 凄いこと起こってるやん。 2000年代の出来事も 知ってないことに愕然とする。 言語、文化、風習の違いで 民族が存在して、 その違いで国という住み分けができる。 その境で争いになる。 強いものに従われるが 強権的なのものでなく それぞれの村単位で どのグループに属するか決定する。 そのグループが大きくなったり 小さくなって大きいとこに 吸収されたり、また別れたり。 イギリス、フランスの植民地支配の時期に 上手いことたち周り独立を維持して 第二次世界大戦時には日本と同盟を 結んだけども、敗戦国を免れる。 戦後の冷戦時代には、民主主義を選択し 中ソに隣接する社会主義の波を タイがちょうど緩衝地帯となって食い止めた。 本の中でも触れられているように 世渡り上手な外交を展開する。 官僚や貴族、軍の政治的な争いも 民衆の声を聞き王様が調停するところは なかなか難しいことをやってのけてる。 日本との関係も深いタイという国の 歴史を読み解くと当たり前だが現代に 通じていることを感じる。 さて次はどこへ行こうか。

Posted byブクログ

2020/06/22

タイの歴史を大まかに知るのに適した本。 あとがきにもあるように、著者の得意分野である道や鉄道の話がいかされているのが理解を助けてくれて大変よかった。

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2017/12/23

 全くタイに触れたことのない人にはハードルが高いと思うが、一定タイに住んで、タイ人と触れ合った上で読むと、周辺国への意識の背景など気づくところが多いのでは。

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2019/07/13
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

「微笑の国の真実」というサブタイトル。しかし、19世紀以降、西欧諸国が東南アジアに進出してきたあたりからの「世渡り上手な国」の実情を知ると、「ほくそ笑み」の国と呼ぶ方が相応しいように思えてくる。タイの歴史の主なポイントは次のとおり。 1.中国の揚子江以南(四川から雲南)に出自を持つタイ族は11~12世紀頃、漢民族の居住域の拡大により南下・西進。チャオプラヤー川の流域に大ムアン(くに)を形成する。 2.アンコール朝(クメール族)が支配していたヨム河畔のスコータイをタイ族が奪う。こうして生まれたスコータイ朝(1240年頃~1438年)は、初めて現在のタイ領をほぼ支配下に置いたマンダラ型国家となった。 3.アユタヤ国(1351-1767年)は、アンコール国(クメール王朝)を滅ぼし(1431年)、スコータイ朝を服属させ(1438年)、アユタヤ朝(1438~1767年)となる。位階田制を整備し中央集権化に努める一方、ビルマとの間で熾烈な攻防を繰り返す。1569-84年、ビルマの属国となるが、ナレースワン王により独立を回復。 アユタヤは港市としても繁栄し、日本人町も形成され、有能な外国人は官吏にも登用する。1612年に長崎商館を介して、朱印船で長崎から渡っ山田長政はその一人。アユタヤは1767年、コウバウン国(現ミャンマー)の攻撃を受け滅亡。 4. コンバウン軍が退却した後タークシンは、アユタヤの再興を諦めトンブリーへ遷都。トンブリ―朝(1767~82年)を築く。バンコクを都とし、ベトナムと勢力争いを繰り返す。タークシンと同じ潮州(ちょうしゅう:広東省東部、多くの華僑を出す)系中国人商人の活動が活性化する。 5.アユタヤ王家の血を引くラーマ1世は、アユタヤをバンコクの地に復活させようと、トンブリー朝の対岸に、現在のラッタナコーシン朝(別名チャクリー朝。1782~)を築く。 6.19世紀には英仏による周辺諸国の植民地化という状況下で、モンクット王(ラーマ4世)は1855年にイギリスと不平等条約を強制され、王室独占貿易は崩壊。領土も「割譲」された(1909年に現在の領域が確定)。一方、タイの関税収入の増加のため代表的輸出品として位置づけたのがコメ。現在もコメの輸出量では、タイは世界1・2位である。 7.インドシナ半島の東部(ベトナム)をフランスが、西部(ビルマ)をイギリスが植民地化。両国の衝突を避けるため1896年、両国はタイのチャオプラヤー川流域を「緩衝地帯」とした(英仏宣言)。タイは日本と並びアジアで唯一植民地にされなかった国となる。チュラロンコン王(ラーマ5世)は英仏の緩衝国として独立を維持するだけでなく、積極的に上からの近代化政策=チャクリー改革を推進し、鉄道による領域統合を進めた。 8.第一次世界大戦が勃発すると、タイは洞ヶ峠を決め込む。戦勝国となって列強との不平等条約を改正するためである。1917年4月のアメリカ参戦により、連合国側での参戦を決める。 9.1932年の絶対君主制から立憲君主制への革命が起きる。以後、頻繁に軍事クーデタが生じる。 10.ピブーン首相が「大タイ主義」を掲げ、国名をシャムからタイに変更。第二次世界大戦も当初は中立を決め込み、日本と不即不離の関係を保ちながら失地回復を目論む。1942年1月に枢軸国側として連合国側に宣戦布告。しかし、宣戦布告に必要な3人の摂政の内1名が不在として、1945年8月16日に宣戦布告無効宣言を行う。 11.米国との協調により国際社会に復帰し、米輸出により復興する。 12.1949年の中華人民共和国の成立やベトナムの共産化の中で、反共を前面に出す。親米開発独裁政権(サリット・タノーム両政権)の下、外資導入型工業化を目指し、反共の地域協力機構ASEANを結成。これらは成功の一方で徐々に格差是正・民主化運動を活発化させてしまう。 13.2005年の総選挙に圧勝したタックシンは、世界的なグローバル化に伴う自由化、規制緩和の潮流の中、「世界の台所」「アジアのデトロイト」などのキャッチフレーズを掲げ、国際競争力を高めようとする。しかし権威主義に起因する諸問題の発生と「売夢政策」に対する国民的不信から、2006年9月に軍によるクーデタが起き、政権が崩壊する。 タイは「微笑の国」と呼ばれるが、東南アジアの社会では、笑いによって様々なコミュニケーションがとられている。人間関係が全てに優先するタイは、実は日本人と共通する点が多い(橘令「日本人」pp.18-32)。

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2017/01/04

クメールが最初は大国を築いていて、タイはその後。 スコータイ誕生。 北部チェンマイは、タイの主軸にはならず、北部の国としてその前からある。 スコータイをアユッタヤーが呑み込み、さらにバンコクへ。インドシナ半島全域の巨大国家。 いつしかカンボジアのクメールは滅び、二度ほどタイを征服...

クメールが最初は大国を築いていて、タイはその後。 スコータイ誕生。 北部チェンマイは、タイの主軸にはならず、北部の国としてその前からある。 スコータイをアユッタヤーが呑み込み、さらにバンコクへ。インドシナ半島全域の巨大国家。 いつしかカンボジアのクメールは滅び、二度ほどタイを征服した強敵ビルマも後にはイギリスの属国に。東はイギリス、西は後からフランスがベトナム、ラオス、カンボジアを吸収し、植民地の時代に。フランスが押してくるが、土地はガンガン譲渡し絶対戦わない。ギリギリで英仏の緩衝地帯として残る。 そのうち第一次世界大戦。終戦近くに参戦し、ちゃっかり戦勝国。 その後の国内は、おもしろいほど各国と同じ流れをもつ。ナショナリズムの高揚、共産化との戦い、第二次世界大戦。 日本軍がタイを要所として進軍するも、通す。しかし、同盟はしない。逆らえずに、、、という言い分で加担しない政策。慎重。そのため、戦後は敗戦国とはなるが軽いもので済む。 戦後は、東南アジアの共産化に対抗する最後の砦として、西欧諸国のパートナーに。 総じて見ると、絶対に損をしない外交ができる国と言える。軽率な決定はしないし、パートナーは戦局がもつ限り考えて慎重に決める。

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2016/12/17

2016/10/13 かねてより高齢・体調不良で心配されていたプミポン国王が亡くなった。カリスマ的な国王が亡くなった事での政治的混乱が心配されていたが今のところ平静を保っている。しかし2013年から続く軍事政権の民政への移行の遅れも取りざたされている。 というわけでタイと言えば...

2016/10/13 かねてより高齢・体調不良で心配されていたプミポン国王が亡くなった。カリスマ的な国王が亡くなった事での政治的混乱が心配されていたが今のところ平静を保っている。しかし2013年から続く軍事政権の民政への移行の遅れも取りざたされている。 というわけでタイと言えば、微笑みの国、ムエタイ、観光・遺跡、マッサージ、歓楽街、"親日"的、山田長政、日本への不法入国者などなど良くも悪くも色々なイメージが付きまとうが、ちゃんと歴史を勉強したことがなかったので、本書を手に取ってみた。 列強の植民地時代・2回の世界大戦を乗り切った「世渡り上手」な外交は、一方的な「親日国」のイメージとは全く異なる。「失地」回復の野心(大タイ主義)と日本の野心とがあくまで合致した結果。 またこの東南アジア地域で見るとタイは今も昔も大国・経済的先進国であり、周辺国との軋轢は日本と周辺アジアとの軋轢を想起させる。 もう少しタイの近現代史や経済開発の歴史を読んでみたいと思った

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2016/11/05
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

 国王をはじめとするタイの王室は、タイ国民から深く敬愛されているが、これは「新しい伝統」であると言えよう。(中略)国王一家は頻繁に地方行幸を行い。国民の辛苦を見てまわった。国王自身も僻地の地域開発に大きな関心を示し、自らの博学を活かして具体的な施策を低減することもあった。この精力的な地方行幸が、国民と国王や王室との距離を縮め、国民の敬愛度を深めることになった。(中略)この「伝統」は、幼い頃から国王とともに各地を巡幸してきた皇太子や王女にも引き継がれている。現在でも夜八時からは各局とも王室関係のニュースを流しており、その日の王族の公務状況が報道されている。(pp.98-100)  タイの第一次世界大戦への参戦は、「世渡り上手」な国タイの外交姿勢が現れた典型例である。すなわち、そこには「危ない橋は渡らない」「最小の負担で最大の利益を得る」という発想が存在した。(p.140)  タイの首都バンコクは東南アジアでも有数のメガシティーへと成長した。バンコクを訪れる人は誰でも、多数の高層ビルが立ち並び、高速道路や都市鉄道が延びる近代都市の姿と、その狭間に残された伝統的な寺院や住居に囲まれた低層の空間のコントラストを目の当たりにするであろう。現在のバンコクは一面では東京やニューヨークなど他のメガシティーと同じ様相を持ち、伝統的な景観は徐々に薄れつつあるものの、市場や繁華街の独特の「活気」は依然として健在である。

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2016/01/07
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

タイを含めインドシナの国々へ、いつか行ってみたくて、 その成り立ちや構造の仕組みを理解する一助とすべく。 外国との関わり合いのなかでうまく立ち回ってきた、アジアの優等生、という著者の評価は、 たしかにあの笑顔のタイ人たちに、とてもよく当てはまる言葉だと感じさせます。 カンボジアやミャンマー、ラオス、マレーシアとの違いはどこにあるのか、といえば それらの歴史に根ざしたアイデンティティにもないことはないのかも、と思いました。 また、先進国の中に名を連ね、近隣諸国や西欧各国との関係性を見直すべき地点に立っている、という点で、 日本との共通点が見出せます。

Posted byブクログ

2014/12/21

タイの歴史を学ぶことはメコン流域の歴史を知ることだな、と思った。当該地域全般がよくわかる。特に、列強諸国の取扱い方(つまり外交)にたけた様子も理解した。 鉄道等(国際)インフラについて記述も詳しい。

Posted byブクログ