日本の原爆記録 3 の商品レビュー
日本図書センターの『日本の原爆記録 3』は、「白夾竹桃の下」と「原爆に生きて」が収められている。 『白夾竹桃の下 女学生の原爆記』は、吉松祐一編、1951年に社会科学研究会出版部から刊行されたもの、『原爆に生きて 原爆被害者の手記』は、原爆被害者の手記編纂委員会の編で、1953...
日本図書センターの『日本の原爆記録 3』は、「白夾竹桃の下」と「原爆に生きて」が収められている。 『白夾竹桃の下 女学生の原爆記』は、吉松祐一編、1951年に社会科学研究会出版部から刊行されたもの、『原爆に生きて 原爆被害者の手記』は、原爆被害者の手記編纂委員会の編で、1953年に三一書房から刊行されたもので、このすべてが再録されている。 「白夾竹桃の下」は、長崎の瓊浦学園で、生きのこった女学生のクラスを担当した吉松祐一さんが、書き綴らせたものである。 「後記」に吉松さんはこう記している。 ▼わたくしの瓊浦学園でも、あの日三年より専攻科生まで、四百名の生徒が他の多数の長崎の中等学校とともに、浦上大橋工場に魚雷製造に挺身隊として出勤していた。そうして、三年生小野静子ほか十三名、四年生富沢カズ子外十八名、専攻科生松本シノ子外十七名、計五十名が、監督の三宅ミヤ子先生とともに殉職した。 その当時、わたくしはその生き残りの組の授業を受けもち、ただちに書き綴らせたのが、この体験記である。 机についている彼女たちの中には、耳のあたりや手などに大きなケロイドのある者や、髪の毛が、ボウボウと脱けあがって、あじ気なさそうに、白い眼をして関についている人などがあった。 書かれた原稿は、紙不足の頃であったので、ノートを引き裂いて書かれていたが、この血のにじむ手記を、ある作文の時間に読ませたが、彼女たちはみな途中まで読んでは口ごもって、涙にむせんだ。私も聞きながら、あふるる涙を、歯をくいしばって止めるに必死であった。 そうして「この手記は、わたくし一人の読むべきものでなく、この惨状と、これ等の生徒の労苦や遭難は必ず後の世に伝うべきこのである」と強く思った。そうして生徒たちにも原稿の整理を命じ、百五十名の手記は、そのまま秘かに筐底ふかくしまっておいた。(pp.112-113) 先日読んだ『広島第二県女二年西組』は、関千枝子という生きのこった一人が、30年あまりのちに、当時の同級生たちの最期の足どりを調べ、たどったものだったが、この「白夾竹桃の下」は、被爆から間もない頃に書かれていて、当時の十代の女学生たちの心身に原爆が何をのこしたかが、一層よくあらわれていると思う。 広島と長崎の違いはあれど、学徒動員されていた女学生たちが被爆後にどのようなことを見聞きし、どう行動したのかには似通ったところがあり、当時の女学生たちがどんな生活を送っていたのかという点では、他の地域でも似たものだったのだろうと思った。 夾竹桃は、あの原爆投下の日にも咲いていたという。 長崎県のサイトでは、「キョウチクトウ」のページで、この瓊浦学園の生徒の手記が言及されていた(http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kotohajime/100.html)。 「原爆に生きて」も途中まで読んだが、返却期限がきたので、いったん返すことにする。
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