徳川幹子 の商品レビュー
徳川幹子 明治30年(1902.12.8)~平成8年(1996.9.16) 93才没 の口語り伝記。82歳ころの語りのようだ。 鳥取池田家に生まれ、一橋家に嫁ぎ、戦後は一転、夫の実家水戸徳川氏の解放した水戸の地で開拓をする。開拓地では婦人団体を組織し、さらに全国開拓者連盟の婦人...
徳川幹子 明治30年(1902.12.8)~平成8年(1996.9.16) 93才没 の口語り伝記。82歳ころの語りのようだ。 鳥取池田家に生まれ、一橋家に嫁ぎ、戦後は一転、夫の実家水戸徳川氏の解放した水戸の地で開拓をする。開拓地では婦人団体を組織し、さらに全国開拓者連盟の婦人部長になり、開拓地や婦人の要望を国にあげ、全国を回る、驚きの人生です。父が慶喜の5男で池田家に養子に入っており、幹子氏は慶喜の孫になるのですが、慶喜とふれあったとかいう話は出てきません。”外孫”だからですかね。夫とは互いの曾祖父が水戸斉昭、祖父が斉昭の長男慶篤、7男の慶喜と同母兄弟で、双方の父親は水戸家12代篤敬と池田仲博で従兄弟同士、夫妻はまたいとこの関係。 育った池田邸は東京麻布霊南坂の上にあり、学習院初等科では昭和天皇の妃香淳皇后となる良子女王と席が隣だったとあります。弁当はスチームで温めたが、皇后の弁当はお昼近くに届けられたとあります。 父の方針で小学5年くらいから兄弟姉妹はイギリス人について英語を習い、今でも会話はできる。結婚後夫のドイツ留学に同伴し(大正15年初夏~昭和3年暮れ)、その時第一次世界大戦の敗戦国のドイツでドイツの没落貴族がたくましく生きているのを見たのが、生きるためには「生産」だという戦後の生き方につながったといいます。 育ちも嫁ぎ先も華族で、特に婚家の一橋家は伝統を重んじる家で、日々の生活で行事が決まっており、お客を迎える時は午前中に入浴してしかるべき衣服に着替え客を迎えたとあります。先代が生きているうちは「若殿」「若奥様」で決めごとは老女や家令がとりしきり自身は権限は無かったとあり、「することながい」とあります。それが、戦後開拓にはいり、苦しいけれども「自由」がありそれは素晴らしいことだといいます。 昭和30年代から40年代、婦人団体の長となり全国をめぐった。活動は藁と縄で、縄のように何本も藁が合わされば強い力となると。またそのなかで、40、50代の婦人はもっと積極的に社会参加したほうがいいという。まず底辺の層を厚くし、手近なところで女性教員を増やすとか市町村の教育委員に女性を置くとかから始めるといいという。・・これ今から40年以上前の語りなのだ。オリンピックの委員で女性を何%入れろと言われる、と今、2021年、御老体の元議員先生が言っているのですよね。 また北海道の池田町は、池田家が明治政府のもとの大名家に開拓者を北海道へ送り出すようとの呼びかけに応じて、著者の父池田仲博が、指導者をつけて鳥取の若い人を池田町に送って、藩主の名字をとって池田町と名付けたというのだ。池田町には「池田農場解放記念碑」が建っており、釧路には”鳥取村” ”鳥取神社” ”釧路市鳥取大通り”という地名があるそうだ。なぜ開拓に入ったのだろう、と思う時そんな父の血筋を感じるという。 水戸の丹下開拓は偕楽園にほど近い場所。元は水戸家の土地で斉昭の射場などもあったところ。明治期水戸藩の家臣で入植した者もあり、さらに戦後の農地解放の折、水戸空襲で焼け出された士族が当時の当主圀順に丹下を開放してとお願いし入植したということだ。 底本「私はロビンソン・クルーソー」徳川幹子著(1984年茨城県婦人会館) 1999.2.25第1刷 図書館
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