生きられた家 経験と象徴 の商品レビュー
家を哲学的対象として、あるいは精神的記号論として、多面的な角度から論じている。一読では、著者の主張を理解出来なかった。
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[ 内容 ] 生きられた家とは、居住した人間の経験が織り込まれた時空間である。 古今東西の家に残されたさまざまな痕跡をテキストとして、人間の多様なあり方を読み取る。 豊かな文化史的知見を駆使した現象学・記号論の貴重な成果。 [ 目次 ] 1 生きられた家 2 空間の織り目 3 ...
[ 内容 ] 生きられた家とは、居住した人間の経験が織り込まれた時空間である。 古今東西の家に残されたさまざまな痕跡をテキストとして、人間の多様なあり方を読み取る。 豊かな文化史的知見を駆使した現象学・記号論の貴重な成果。 [ 目次 ] 1 生きられた家 2 空間の織り目 3 住みつくかたち 4 欲動と記号 5 象徴とパラドックス 6 時間と記憶 [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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多木浩二の教養の広さが光る。 家を中心に、それを享受する我々からの現象学的分析および、空間を編成する原理の底流となる文化人類学的知見、空間に流れ込み空間を編むことになる言説や無意識の解説など。 生きられた家の分析によって家は対象ではなく方法となり、まさにこの本によってこそ「家は生...
多木浩二の教養の広さが光る。 家を中心に、それを享受する我々からの現象学的分析および、空間を編成する原理の底流となる文化人類学的知見、空間に流れ込み空間を編むことになる言説や無意識の解説など。 生きられた家の分析によって家は対象ではなく方法となり、まさにこの本によってこそ「家は生きられている」。
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ハイデガーの「建てること、住むこと、考えること」という講演の「以下」の一節を引用して、このことは日本の古い民家や、かつての農村にも同様の指摘ができるという。 ハイデガーのシュバルツバルトの古い屋敷評:「(地域住民自らが家を建てる)能力は、屋敷を、風のあたらない南向きの山の斜面に...
ハイデガーの「建てること、住むこと、考えること」という講演の「以下」の一節を引用して、このことは日本の古い民家や、かつての農村にも同様の指摘ができるという。 ハイデガーのシュバルツバルトの古い屋敷評:「(地域住民自らが家を建てる)能力は、屋敷を、風のあたらない南向きの山の斜面に、草地のあいだの泉の近くに建てた。屋根には庇の長い、こけら葺の屋根をつけ、その屋根は適当な勾配をとって雪の重みを支え、深々とかぶさりながら長い冬の夜々の嵐から部屋部屋を守る。聖像の置き場を団欒のテーブルの背後に設けることも忘れない。子供のベットやひつぎを置くための神聖な場所を部屋のなかにあけている。…」 この話を引き合いに、氏は、かつての民家、空間には「住むことと建てること」が不可分であったことを指摘している。これは、汽車から見える農村の風景が実は、その自らが建てる(造る)という部分を失った状態で、成り立っていることを指摘した以下の文章からも伺える。 「長い旅をしながら窓外をみていると、コンクリート・ブロック、トタン、(中略)が国中にひろがり、家の面影を変えている。いわゆる民家はまもなく消えてしまうだろう。民家がなりたつ条件そのものが社会から消失しているのだ。おそらく農村そのものが消えようとしているのだろう。たとえば屋根を葺く材料もなくなり、屋根を葺くために必要であった共同体(ゆい)もほぼ解体している。いま、このような家を原型のまま維持するとしたら、それは生活でなく文化財として保存が加えなければならない。 それはもう生きられる家とはいえないのかもしれない。」 以上の「住むことと建てることが一体の生きられた家」を「利用することと造ることが一体の生きられた空間」と読み替えると、今回の震災で問題となる原発や、海岸近くの大型ポンプで排水をコントロールしてきた水田群はまさに、地域住民が自分たちで・管理・修復できない、「利用することと造ること」が分断されたシステムであるといえよう。 これらのハイデガーの「住むこと=建てること=考えること」という指摘は、環境の研究分野の細分化、地域住民と専門家の2極化が進んだ現代社会に対する1つの批判である。 地域住民(住まい手)は、専門家に全てを委ね、その意味や、課題を考えず、その一方で、土木、建築、エネルギー等の専門家(造る側)が住まい手のことを考えない状況で、現在の環境が作られたとすれば、その環境が破綻した責任は誰に問えるのか。 使い手側と計画側の分離は、専門性を高めたシステムを開発し、古い時代にはなかった便利性、合理性を日本中にほぼ平等(悪く言えば画一的に)に提供してきた。しかしながら、一度、そのシステムが破綻すると、その修復には莫大な資金、時間が必要となる。現在、農水省、国土交通省などそれぞれの価値観、立場から復興、再生のための計画を提案している。 この中で、多木浩二氏が指摘する「生きられた空間」が東北地方に再生されるためには、住民、行政との連携、協議による「住む(利用)ことと建てる(造る)こと」のマッチングのプロセスが必要である。 あるいは計画者の方に、かつて個々の地域で当たり前に行われてきた地域環境や、歴史的な経験を踏まえた環境デザインが求められているのではなかろうか。 日本を代表する哲学者としての多木氏は今回の震災とその被害をどのように捉えていたのだろうか。
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建築を「記号」として捉え、建築実体を説くのではなく、社会的な生活に関係付けていく複雑なネットワークの中の位置づけについて説いている。記号論や象徴論、構造主義などを用いて、建築の原基である家を現象学的に、哲学的に解読した内容。 ちょっと難しいけど・・・ぜひ一読を。
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