我と汝 対話 の商品レビュー
河合隼雄全対話9 「母性社会日本を生きる」の 今道友信さんとの対談で河合さんは 「僕は学生によく日本に「我・汝」という関係がありますかというんです。おそらく無いんです、だから日本と西洋とでは、全く違う人間関係にいるんです。日本人で本当にブーバーのいっていることを理解しようとするこ...
河合隼雄全対話9 「母性社会日本を生きる」の 今道友信さんとの対談で河合さんは 「僕は学生によく日本に「我・汝」という関係がありますかというんです。おそらく無いんです、だから日本と西洋とでは、全く違う人間関係にいるんです。日本人で本当にブーバーのいっていることを理解しようとすることは命がけのことなんですよ。」と言っています。 つまり、日本人には馴染めない概念ということです。ですから、この本の内容はわからなくても大丈夫なんです。
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メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1836749664286335359?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
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友達が絶賛していて、さらに別の友達が「ブーバー知ってる?」って聞いてきたので、これは読んでみなくてはと思った。 最初に言いたいことを言っておく。宗教に関わる人、興味がある人は是非読んでほしい。自分の感想なんて気にしないで、とにかく読んで欲しい。読めばどうしてそんなことをいうのかわ...
友達が絶賛していて、さらに別の友達が「ブーバー知ってる?」って聞いてきたので、これは読んでみなくてはと思った。 最初に言いたいことを言っておく。宗教に関わる人、興味がある人は是非読んでほしい。自分の感想なんて気にしないで、とにかく読んで欲しい。読めばどうしてそんなことをいうのかわかるだろう。 ”根源語〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる” ”根源語〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることができない” いきなりなんのことだろうなのだが、これを読み進めていくと、〈なんじ〉の世界が開けてくる。対象とするのではない。関係性なのだ。 『我と汝』の第一部は初めて読むとむずかしいが、一回『我と汝』と『対話』を読み終わった後、再度読むといいと思う。 ブーバーはユダヤ教系宗教学者でユダヤ教を主として書いているので、「神」という表現がでてくるが、どうしてどうして真宗に通じるものを感じざるを得ない。そこはナチュラルな脳内変換で読み進められる。 仏教に関しても知識がある。ユダヤ教、キリスト教、仏教を対比させている部分もあった。 これ以上引用はできない。なぜなら気になったところがほぼ毎ページで付箋で本がふっさふさだからだ。 仏教徒である自分が読んでもどうしようもなく惹きつけられるものがある。きっと様々な宗教のバックグラウンドを持つ人が読んでもそうなんじゃないだろうか。そう思うと、宗教というものの深いところにあるものって、みんな似通っているのではないだろうかということを考えさせられる。 『対話』もいい。 自分は相手と『対話』しているか。〈われーなんじ〉で対話をするということ。この本を読むこと自体が対話なんだ。一行一行に引き込まれる。深く深く入っていくことをイメージした。根源的な関係性。相手ではない。 読み進む喜びは西田幾多郎の『善の研究』以上だった。 これは、何度でも読める。そして何度でも気づかせられる。 読み進めるうちに、これはあのことを、ここはあの法話で言っていることではないか。どんどん自分の中で何かがつながっていく。情報量が多くなって前に進めない。流して読んでも感じるものがあるけれど、普通に読むといろいろ考え出してしまう。思考じゃない。気がつくことがとまらない。 それぞれの宗教の、求道の軌跡がこの本の中で蘇るような瞬間があると思う。ああ、あのことはこれであったかと。そんな感じがする本だ。 「言葉」で真如の世界との関係性を語ろうとしている。むずかしいけれど、こんなにいろいろなものを自分の中に沸き立つものを発見できるのかと思う。 とにかく、読んで、『我と汝』、『対話』を知って欲しい。 大絶賛。
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我と汝・対話 (和書)2009年03月04日 19:17 1979 岩波書店 マルティン・ブーバー, 植田 重雄 「我と汝・対話」はとても興味深く読むことが出来ました。諸関係を浮き出させ、それを超えようするとはどういうことかを見事に指摘しているように感じました。そう言う意味で...
我と汝・対話 (和書)2009年03月04日 19:17 1979 岩波書店 マルティン・ブーバー, 植田 重雄 「我と汝・対話」はとても興味深く読むことが出来ました。諸関係を浮き出させ、それを超えようするとはどういうことかを見事に指摘しているように感じました。そう言う意味で宗教の批判(マルクス)とも言えるし全く独自に追求しているところが凄い。孤独について共同体についてなどそれを「我と汝}の関係性によって見事に批判しています。吃驚するぐらい良書でした。
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マーティンブーバー。 われとなんじ われとそれ われとなんじは関係背の世界を成り立たせ、絶対的な全存在を持って語られる。経験は、われとそれに属する。つまりは、それと同じわれであるから、繋がりを絶ってしまっているもの。世界は2つある。そして、人間の態度は根言語=ベーシックワーズの二...
マーティンブーバー。 われとなんじ われとそれ われとなんじは関係背の世界を成り立たせ、絶対的な全存在を持って語られる。経験は、われとそれに属する。つまりは、それと同じわれであるから、繋がりを絶ってしまっているもの。世界は2つある。そして、人間の態度は根言語=ベーシックワーズの二重性に基づく。
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信仰について非常に重要なことを言っているような気はしたが、よく分からないところも多かった。もう一度読みたい。
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【前編1 創造原理】 創造原理でいう授受作用に実存的真理をおき哲学している。著者のマルティン・ブーバーは19世紀末から20世紀にかけて活躍したユダヤ人思想家である。ブーバーの哲学は一言で「対話の哲学」と表現できる。人間を独立した個として考えるのではなく、結ばれる関係性から個を見...
【前編1 創造原理】 創造原理でいう授受作用に実存的真理をおき哲学している。著者のマルティン・ブーバーは19世紀末から20世紀にかけて活躍したユダヤ人思想家である。ブーバーの哲学は一言で「対話の哲学」と表現できる。人間を独立した個として考えるのではなく、結ばれる関係性から個を見つめ哲学をした。 ブーバーの思想は端的に、〈我〉〈汝〉〈それ〉の関わりで語ることができる。〈我〉というのは私自身、または人間一般のことである。私たちが持つことのできる関係性には2通りがある。〈我‐汝〉という関係と、〈我‐それ〉という関係である。〈我‐それ〉というのは客観的な関係、いわゆる科学的、実証的に物事と関わる関係のことを言う。いくらこのように宇宙と関わったとしても、人間の疎外は解決できない。我々は〈我‐汝〉という、対象に自らを投入し、対象を自らの一部のように受け入れる〈我‐汝〉という関係から、宇宙および人生を見つめていく必要性がある。そうすることでなしに、実存的な世界拓けることはない。 これは非常に宗教的、そして体験的な実存哲学である。それを実感しうる立場はそのように生きた人間に限られるのではないか。それゆえに難解である。しかしこれが一部の人にしか受け入れられないものであるならば、流れ去るだけであるが、ブーバーの思想が今も生き、そしてなお現在であるからこそ見直されているのは、〈我‐汝〉、原理で言うところの「よく授けよく受ける」という関係性の真理を、誰もが感じているゆえだと思う。 またブーバーの思想の中に長い歳月を越え、余計な脂肪をそぎ落とされた澄み渡るようなユダヤの歴史を感じる。この書の表現は深遠であり、隅々まで詩的で美しい。長い年月風雪にさらされ淘汰されつつ、砕けさらさらになったユダヤの城壁が、その砂粒としての離散の運命を越えて、見えない意志により再び結びあわされる、ディアスポラに芽生えた生き方を伝えているようである。。 どうしてもキリスト教的な思想と対比してしまう。キリスト教がイエスの死という現実を見つめるところから始まる信仰であるがゆえに、生々しい。それに比べユダヤ教は同じ一神教の信仰を持ちつつも、思想は乾いている。乾いているように感じてしまう。キリスト教はイエスの存在を持って、どこまでも人格的な一つの神の存在を強烈に刻みつけるのに反し、ユダヤ教は同じ一つの神を信じつつも、そのイメージには砂漠が入り込み、空の青とオアシスの恵みが映り込む。汎神論的な思想に近接するようにすら感じてしまう。その二つには連続性があり、反目があり、発展があり、補完がある。 いくつかの角度から見つめるに耐えうる思想であると思う。
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ユダヤ人哲学思想家、マルティン・ブーバーによる書。実存主義的立場から、宇宙観を対話的な相互関係より始まると説いた。 我々が自分を考える時、または物事を考える時、<われ>と<なんじ>または<それ>という一般名詞として表すことが出来るが、このそれぞれは、その根源語としての<われ―...
ユダヤ人哲学思想家、マルティン・ブーバーによる書。実存主義的立場から、宇宙観を対話的な相互関係より始まると説いた。 我々が自分を考える時、または物事を考える時、<われ>と<なんじ>または<それ>という一般名詞として表すことが出来るが、このそれぞれは、その根源語としての<われ―なんじ>という関係、または<われ―それ>という関係を基本として成り立つ。<われ―なんじ>というのは、相互補完的、補助的な関係で対話的であるのに対し、<われ―それ>というのは相手を利用するような立場、利害関係が生じる立場において成り立つ言葉である。 昨今は<われ―なんじ>という、自らを与え生かされるような関係が薄れ、相互独立的に利害を前提とした関係<われ―それ>の関係が溢れかえっている。特に人との関係の中にこの<われ―なんじ>の関係を取りもどす必要がある。人間の本来の幸福、創造的な生はそこから始まる。 要約するとこういう感じだと思う。一言で非常に難解である。ある特殊の宗教的体験、実存的体験を前提としなければ、この書に字面以上の実感を持って理解することは難しいと感じる。表現も深遠であり、隅々まで詩的で美しい。長い年月風雪にさらされ淘汰されつつ、砕けさらさらになったユダヤの城壁が、その砂粒としての離散の運命を越えて、見えない意志により再び結びあわされる、ディアスポラに芽生えた哲学である。 どうしてもキリスト教的な思想と対比してしまう。キリスト教がイエスの死という現実を見つめるところから始まる信仰であるがゆえに、生々しい。それに比べユダヤ教は同じ一神教の信仰を持ちつつも、思想は乾いている。乾いているように感じてしまう。キリスト教はイエスの存在を持って、どこまでも人格的な一つの神の存在を強烈に刻みつけるのに反し、ユダヤ教は同じ一つの神を信じつつも、そのイメージには砂漠が入り込み、空の青とオアシスの恵みが映り込む。汎神論的な思想に近接するようにすら感じてしまう。その二つには連続性があり、反目があり、発展があり、補完がある。 ブーバーは<われ―なんじ>の関係の根源を、神と人間との関係とした。そして人間同士の関係は、擬似的な神との関係であると。愛を受け交わす瞬間の実感、我々の生はそこから始まると。
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ユダヤ系の哲学者であるマルティン・ブーバーの著作です。ここで彼は『世界は人間のとる態度によって〈われ‐なんじ〉〈われ‐それ〉の二つとなる』と説き、疎外された現代社会の人間像を浮き彫りにします。 僕は本書を佐藤優氏経由で知りました。古典的な哲学書であり、ユダヤ教哲学者マルティン・...
ユダヤ系の哲学者であるマルティン・ブーバーの著作です。ここで彼は『世界は人間のとる態度によって〈われ‐なんじ〉〈われ‐それ〉の二つとなる』と説き、疎外された現代社会の人間像を浮き彫りにします。 僕は本書を佐藤優氏経由で知りました。古典的な哲学書であり、ユダヤ教哲学者マルティン・ブーバーの代表作でございます。僕は本書を1ヶ月半かかって最後のページまで読み進めましたが、内容はものすごく詩的かつ抽象的な文体で、正直なところわかったようなわからないような…とそういった複雑な感情を抱きつつ、この記事を書いております。 彼によると世界は人間のとる態度によって〈われ‐なんじ〉〈われ‐それ〉の二つとなる。この箇所を佐藤優氏の著作を読んで興味を持ち、自分と相手を対等の相手とみなし、関係を構築しようとするのを『我と汝』と表現しそれとは対照的にその対象を『モノ』としてみなし、利用する関係を『我とそれ』と表現し、現代社会の持つ『疎外』について考察したことについてはこれまた見事だなと、ここだけはどうにかついていけたような気がいたしました。 そして、〈われ〉と〈なんじ〉の全人格的な呼びかけと出会いを通じて人間の全き回復が可能となる。ということを、そのまま恋愛に置き換えると『愛』とは『我』と『汝』の間にある感情である。そういっていた意味がなんとなくわかりかけたような気がいたします。『我とそれ』もしくは『我と汝』というのは人間関係を見つめる上で、非常に便利な考え方ですので、ブーバーの哲学についての解説書を今後読みつつ、彼の思想に関する理解を深めていけたら、とそんなことを考えております。
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「真の宗教の対話の時代は始まっている。---相手を現実に見つめることもせず、呼びかけもしないあの見せかけの対話ではなくて、確信から確信への真の対話、胸襟を開いた人格から人格への真の対話である。真の共同体はこのようにしてようやく現われる。それはすべての宗教に見出され、いわゆる信仰の...
「真の宗教の対話の時代は始まっている。---相手を現実に見つめることもせず、呼びかけもしないあの見せかけの対話ではなくて、確信から確信への真の対話、胸襟を開いた人格から人格への真の対話である。真の共同体はこのようにしてようやく現われる。それはすべての宗教に見出され、いわゆる信仰の同一内容のそれではなく、状況と不安と待望の共同体である。」(p.183)→「真の・・・対話の時代は始まっている。・・・。真の共同体はこのようにして(真の対話によって=角田注)ようやく現われる。」のであり、その真の共同体とはもはや宗教、民族、言語などの「同一内容のそれ」ではない。異なる宗教、異なる民族、異なる言語間の真の対話による多様性を包含した真の共同体である。
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