いかにして神と出会うか の商品レビュー
p.228「「どうすれば」という言葉は方法を意味している。(…)しかし、方法やシステムに従うことはすでに心を条件づけているので、「どうすれば」という言葉を使うことの難しさを理解して欲しい。」 「いかにして」神と出会うか。「どうすれば、いかにして」いわゆる、how to。「なに...
p.228「「どうすれば」という言葉は方法を意味している。(…)しかし、方法やシステムに従うことはすでに心を条件づけているので、「どうすれば」という言葉を使うことの難しさを理解して欲しい。」 「いかにして」神と出会うか。「どうすれば、いかにして」いわゆる、how to。「なになにしたければこれこれしなさい」。卵を何分間ゆでなさい。さすれば、ゆで卵ができるであろう。これがゆで卵を作る方法。「方法」とは、未来に適用することの可能な、過去の経験に基づく既存の知識。ゆでる時間が短ければ、半熟になるし、ながすぎれば、固くなってしまう。ちょうどよくしようとするなら何分でなければならない。 クリシュナムルティは、「条件付け」という言葉をよく使う。方法を求めるとき、人は、自分の心を条件づけようとしている。これを行えばこのような結果が得られるであろう。このような観念に心を限定している。 しかるにクリシュナムルティいわく、神はいかなる条件付けからも自由になった時に現れる可能性がある。未知のもの、測りがたいものこそ神。ゆえに、「いかにして神と出会うか」問い求める限り、人は神にであうことはできない。クリシュナムルティの言葉に従えば、そうなるはずである。 ちなみにこの本の原題は、『いかにして…』ではなく、至ってシンプルに"On God"すなわち『神について』。
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この本は聖なるものは存在する、という一文ではじまるが、聖なるものはいっこうにはっきりしない。 相当に疑う姿勢を貫き通す言葉があり、神の存在は明瞭にはならない。 けれども、その言葉の間から希望が見える。 聖なるもの、を単なる救いの言葉、宗教の常套句にしてしまう、私達をまず解放させ、...
この本は聖なるものは存在する、という一文ではじまるが、聖なるものはいっこうにはっきりしない。 相当に疑う姿勢を貫き通す言葉があり、神の存在は明瞭にはならない。 けれども、その言葉の間から希望が見える。 聖なるもの、を単なる救いの言葉、宗教の常套句にしてしまう、私達をまず解放させ、そこから出発点を探るKの言葉が嬉しい。 最後のボームとの対話の中に無意味の神聖さに迫る議論が、私を離さない。
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題名はクリシュナムルティ・トラップである。ブッダの動執生疑(どうしゅうしょうぎ/執着している心を揺り動かし、疑問を生じさせる化導〈けどう〉方法)と同じ仕掛けだ。 http://sessendo.blogspot.com/2011/09/j.html
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つきぬけてる……。 神を語ろうとすればするほど、神から離れていく。だから世の中の宗教者が唱える神は神ではない、ってことかな? 面白かった。
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