知恵の悲しみの時代 の商品レビュー
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『昭和の戦争の時代に遺された本から、伏流水のような言葉と記憶を書きとどめること。「不戦六十年」を過ぎたいま、この国の自由と「言葉のちから」を問う。』 昭和の戦争の時代を「知恵の悲しみの時代」として、その時代に作られた本、綴られた言葉。 決して大きくはなかったそれらの言葉にもっと耳を傾けていたら、あの時代が「知恵の悲しみの時代」にはならなかっただろうに。 世界を見ることをやめ、自分の周囲だけしか見ない。 違いを認めることができない。 そんな息苦しい世の中で、本を読むこと意味とは。 ”読書は、読書という習慣です。「習慣は、単に状態であるのみならず、素質であり能力である」。戦争に読書の習慣をうばわれた或る読書家の短い人生が思い出させるのは、彼の読むことのできなかった『習慣論』にある、その言葉です。” ”日本人には人民主権に比し得る伝統がない。明治憲法は『臣民subject』については語ったが、『people(人民)』については語らなかった。” 高村光太郎はリンカーンの「the people」を「人民」や「国民」としてでなく、「只の人間」すなわち「人びと」と捉え直した。 ”いま、ますます深く問われているのは、「人びとを、人びとが、人びとのために、自ら律する国のあり方」です。” 言葉の持つリズムは「人民の、人民による…」の方がいいと思うけど。 時代をけん引する言葉、時代を壊す言葉。 そういう大きな声で語られる言葉ではなく、詩人・長田弘が救い上げた言葉はしみじみと現在の私たちを包み込み、あの時代を思い起こさせるのである。
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宗教は信仰です。信仰は純粋を求める。純粋は混とんを弾けます。しかし文明を活かすものは純粋ではなくて、、混在であり、輻輳です。
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古本市でみつけて即購入したのは、これまで長田弘さんの本から、たくさんのことを教わってきたから。なかでも大切な『私の二十世紀書店』が、戦争と革命、難民、開発の時代であった二十世紀を世界文学から読み直すものであったのに対し、この本は、日清戦争が始った1894年から、1945年まで、戦...
古本市でみつけて即購入したのは、これまで長田弘さんの本から、たくさんのことを教わってきたから。なかでも大切な『私の二十世紀書店』が、戦争と革命、難民、開発の時代であった二十世紀を世界文学から読み直すものであったのに対し、この本は、日清戦争が始った1894年から、1945年まで、戦争に覆われ、言論統制が強まっていく日本で出版された、さして有名でもない本たちの中から、騒音にかき消されようとしていた、ささやかな言葉たちを拾う試みです。たとえば、ルネ・クレールの映画「自由を我等に」に感動し、伊藤野枝にラブレターを書き送ったこともある木村荘太が、野枝殺害の報に接し「感情や、感動で動けるような思いならなんとでもいっていい表せる」と、長い沈黙にひきこもる前につぶやいた言葉。若き淀川長治も生き生きした映画批評を寄稿していた京都の小新聞『土曜日』が、日中戦争開始後、わずか1年で廃刊に追い込まれたときに残した「明日への望みは失われ、本当の智慧が傷つけられ、真面目な夢は消えてしまった」という言葉。テロルや爆撃によって割れたガラスの写真を収め、「ガラス語を解せぬ者には、ガラスの叫びは理解できない」と記した『びいどろ』という奇書。たいして価値もない古本の中からそうした言葉を聴きつける著者の耳は確かだと、あらためて思いました。本書の冒頭で、著者は9.11事件から始った戦争の中でこの本が執筆されたことを明らかにしています。ただ・・・私にはどうも、著者が戦争/平和を二項対立的にとらえているように感じられ、たとえば旧憲法の言葉に触れながら現在の「平和憲法」を評価する文章などに、違和感を感じずにはいられませんでした。辛い時代の中でひそかにつむがれてきた言葉の願いが結実したのが平和憲法の理念だといったら、あまりにも綺麗にまとめすぎなのではないのでしょうか。
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「戦争のない日常の平凡な時間のうつくしさこそ、かけがいのない『人間の慰み』であり、わたしたち自身の手にとりかえすべき大切なものである」
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