会津武士道 の商品レビュー
会津藩の基盤を築いた保科正之、改革を行った田中玄宰、幕末の動乱を取り上げる。会津の歴史をコンパクトに学ぶことができた。 会津藩だけでなく、江戸幕府の精神を支えたとも言える正之の遺産が幕末の悲劇を招いたのは歴史の皮肉としか言いようがない。歴史は繁栄と衰退を繰り返すものとはいえ、あ...
会津藩の基盤を築いた保科正之、改革を行った田中玄宰、幕末の動乱を取り上げる。会津の歴史をコンパクトに学ぶことができた。 会津藩だけでなく、江戸幕府の精神を支えたとも言える正之の遺産が幕末の悲劇を招いたのは歴史の皮肉としか言いようがない。歴史は繁栄と衰退を繰り返すものとはいえ、あまりにも悲惨な結末であり、受け止めきることができないほどだ。 ・保科正之は、第2代将軍秀忠の側室の子として生まれ、武田信玄の次女見性院に引き取られた後、教育を受けさせるために信州高遠藩の養子となり、その後藩主を継いだ。1636年に出羽山形への転封後、1643年に会津への再転封を家光に命じられ、初代会津藩主となった。 ・家光の臨終の際に家綱の後見を託された後、23年間将軍の補佐役を務めた。玉川上水の開削を行ったほか、明暦の大火の際に幕府の米蔵を開放したり、町の復興を優先させて天守閣の再建を認めなかったというエピソードがある。大名家の断絶を少なくして浪人を減らすために末期養子を禁止したこと、大名証人制度を廃止して正室と長男を江戸に人質としておくことをやめたこと、殿の死を追う殉死を禁止したことが、三大美事とされている。 ・会津藩では、社倉制度や高齢者年金制度、旅人の行き倒れを救済する制度をつくり、間引きや残酷な刑を禁止した。自分の亡き後も政治が永久に続くようにつくった会津藩家訓は、幕末まで保科家と会津藩士の精神的規範となった。 ・第5代から第7代藩主に仕えた田中玄宰は、天明の飢饉によって乱れた藩の風儀と武士道の精神を立て直すために、一度家老を辞して保科正之が編纂した会津五部書を研究した。その後の改革によって、軍は樺太出兵や蝦夷地の北辺警備を担うまでになり、日新館を創立したり、幼児が朗読するための「什の掟」をつくるなど教育改革も行った。 ・戊辰戦争時、足かせにならぬよう家庭で死を選んだ老幼婦女は西郷頼母家など230人。 ・禁門の変以降の戦死者総数4650人のうち、会津藩は3014人。
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20年2月 市立図書館より 藩祖保科正之から明治を生きた藩士たちの歴史を振り返る。 さまざなな史料から会津武士道のすばらしさが語られている。
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